第34話
その余韻からか私はいつもよりも上品に扉を閉め、足元にも気を遣い廊下を静かに歩いていく。するとお父さんとお母さんの声が耳に届いた。
「なに?バトンって?」
ダイニングを覗き込むように声を掛けると、一瞬、二人とも戸惑ったような顔で私を見た。
「あ~、ほらさっきお父さんが八神さんと床の話してたでしょ?それでねぇ~?」
「そうそう。床をパインで建てても良いんじゃないかってさ。柔らかくて肌触りがいいとかって―――」
それ以上、深くは訊かなかった。
後片付けを手伝ってからお風呂を済ませ、いつもより少し遅めの時間にベッドに入った私は、賑やかだったダイニングのひと時を思い出し、クスッと笑いを漏らした。あんなに楽しそうに酔っぱらうお父さんを見るのはいつ以来だろうか。
定年まであと四年。家族のために一生懸命に頑張って来てくれたのだから、たまには良いかと寝返りを打つ。すると不意に先ほどの二人の会話が気になって目を開けた。
―――「良い感じの人だな~。あんな人にバトンを託すのも良いんじゃないか」
確かお父さんはそう喋っていた。いつも以上に飲んで名文句でも浮かんだのだろうか。あれこれ考えたところで寝不足は仕事に差し支えると、私は断ち切るように布団を被った。
約二週間後の十七日の夜のこと。
私は街からやや外れたところにある『のあ』というレストランに居た。向かい側には八神さんが座っている。夕食時ながら店内にあるテーブルはいくつか空きがあったため、私達は一番奥の端に着いた。年季を感じさせる店内は仄かな照明に包まれていて、ボサノバ調の音楽が流れている。
「いきなり御仕事先に電話を掛けちゃったりしてすみませんでした」
オーダーを終え、年配の店員が立ち去ると、私はこくりと頭を下げた。
「いや、気にしないでください。と言っても旅行会社から電話だと言われた時にはさすがにびっくりしましたけどね」と八神さんは微苦笑を漏らした後で、「そういえばお勤め先とかは訊いてませんでしたよね。旅行会社の方に?」
「ええ。と言っても、私のところは大手の代理店なんですよ。個人名でもいいかなって最初は思ったんですけど、それだと八神さんに迷惑が掛かるような気がしたので‥‥‥」
云々と二度ほど頷いてから「私が女っ気のないことをみんな知ってるから」結果的には良かったと話した。
「それでどうごまかしたんですか?」
やや目に笑いを浮かべて尋ねると、「うちの親が旅行しようとかって言ってたから問い合わせたんだった。って―――」明るく言ってから八神さんは煙草に火を点ける。ライターの音が店内に響いた。
「煙草‥‥吸われるんですね。ひょっとして家では我慢してたんですか?」
「あ‥‥いや、我慢というか日向さんは吸われないみたいだったから」
「以前は吸ってたって聞いたことがあるんですが、三十歳で止めたらしいです」
なるほどと言う顔で誰も居ない方に煙を吐き出してから、一度視線を落とし、
「だけど、何となく予感はあったかな‥‥‥電話が来るんじゃないかって」
「予感?」
小首を傾げる私に慌てて手を数回振った。
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