第35話

「別に深い意味とかは無くて、ただなんとなく―――」


 言葉の続きを探すかに灰皿にポンと灰を落とす。



「実のところ、俺も話をしたいと思ってて―――」


 そこまで言って、しまったとばかりに頭に手を当てた。


「普段の調子で喋ってください。私もその方が気楽ですから」


 コクッと顎を引き、八神さんは水を口に運ぶ。



「だけど家の電話も知らないし、またのこのこ出掛けるわけにもいかないから、どうしたものかって。そんなことを考えていたら―――」


「ちょうど『グランドツーリスト』から電話が来たと?」



 私の台詞に八神さんは肩を揺らし、「そう!グランツから」と口角を上げる。


「みなさんそう略しますよね」


「ああ。でもうちの会社に大阪出身の奴がいて、そいつはグラツリって言うんだよ」


 それから八神さんは車の話を引き合いに出して説明してくれた。



「だけど、ちょっと事務的な話し方だったから誰かなって一瞬思っちゃったよ」


「職場から掛けていたのでいつもの癖が抜けなくて―――」


 ニコッと笑ったタイミングでサラダとスープが運ばれてきた。



「あまり立ち寄らないんだけど」と前振りしてから「ここのパスタはけっこういけるんだよ」と八神さんはフォークを手にする。パスタを勧めた理由を納得しつつ、私は八神さんと会話の時を過ごした。


 俗にいうどうでもいい話。そのカラーが変わったのは食後に出されたコーヒーを幾度か啜った後だった。



「話したいことと、訊きたいこともあるんじゃないですか?‥‥‥先輩というか川島由佳理さんのことで」


 言い辛そうにしていたので私が先に口を開いた。八神さんはじっと黙って私を見ている。


 何も言わなかったが、そうだと瞳が語っていた。


「私が電話した理由もそれなんだと思います。いろいろ知らなかったことを八神さんからなら聞けるんじゃないかって―――」


 もちろんこれは本音だ。しかし、胸の内ではこの人とお付き合いするだろうという予感めいたものは感じていた。そうでなければよろめいて支えられた時や、傘を手渡された際に触れた手の衝撃がどうにも説明できない。ただの独りよがりの可能性もあるだろうけど。


 あるいは先輩の悪戯ってことも。



「わかった。近いうちに必ず―――」


 そう言うなり八神さんは目に光を灯し伝票を手に取った。






 忘れられない。それでいて薄らぎつつある記憶の一コマが、突然、瞼に受ける強い光によって断ち切られた。


 そっと目を開けたと同時に一陣の風がワンピースの裾を大きく揺らし、私は咄嗟に手でそれを押さえる。それまで感じなかった鼻孔を掠める香りは、どことなく懐かしさも含まれていた。


 立ち止まったまま周囲に目を凝らす。信号機から五差路だということは理解したものの、道路の様子からすぐに別の場所であることが分かった。けれどもそれが一体どこなのかは皆目見当がつかない。


 あれだけ暗かった世界が一転して眩しいほどの明るさに包まれている。見上げた太陽の位置からも昼。そして身体に受ける暑さから夏だろうと思った。


 立ち尽くしていても仕方が無い。そう思った私は足に任せるまま歩き始める。するとその横を何台もの車が通り過ぎていき、その度に熱風に近い風が私の身体を撫でて行く。


 確かほんの少し前は秋だった。


 冬と春はどこへ行ったのかと考え始めた時には、既に薄っすらと額に汗が滲んでいた。

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