第36話
すぐさまポケットからハンカチを取り出し、額と首筋をひと拭きして息を大きく吐き出す。季節に合ったワンピースと慣れ親しんだショートヘアでも耐えがたい暑さだ。きっと若い頃ならこの暑さにも違った楽しみを見いだせるのだろうけれど。
まさか日傘までは出ないわよね。一人心の中で呟くとクスッと笑いが漏れた。
周囲に視線を巡らせながら十分ほど歩いていると、視線の先に定規で線を引いたように二色の景色が映る。そこでようやく香りを理解した。
海があるんだ‥‥海が。
海を見るなんていつ以来だろう。確か、二十年‥‥もう少し前になるかしら。そういえば最後に見たのは日本の海じゃなかった。
熱風に混じる匂いと共に車もあまり通らないであろう道を進んでいくと、見知らぬ街が記憶の中の景色とピタリ重なり合い、自然と歩くスピードが増して行く。どこにでもあるような海辺の街並みとはいえ、確かにここは歩いた覚えがある。吸い込む空気すら遥か遠い記憶をくすぐるようだ。
それから招かれるように私はT字路を左に折れる。すると見覚えのある『さざなみハウス』という文字が目に入った。
『さざなみハウス』は親戚が営む民宿で、かつて私も先輩と海水浴シーズンに泊まりに来たことがある。叔父さんは海辺らしい古風の名前が良いと話し、叔母さんは小洒落た横文字が良いと言って最終的にはこの名前になったのだとか。
初めて見た時は違和感からか先輩と笑っちゃったけれど、今こうして見ると独特の味わいが感じられて良い。
懐かしさに目を細めかけた時だ。腰に浮き輪を付けた女の子が『さざなみハウス』から飛び出して来るのが見えた。そしてあとに続くように男の子が出て来る。どちらも就学前という大きさで可愛らしい水着を纏っている。その後、姿を見せた両親と思しき二人が先を行く子供らに何やら声を掛けている。一緒に海に出掛けるところなのだろう。
幸せそうな家族の光景を瞳に映していた私は、突如視界に現れた人物にハッとなった。
叔母さん!
横顔を見た途端、ついそう叫びそうになり、慌てて自分の口にブレーキを掛けた。すると瞬時にあの頃という夏のページが浮かぶ。高校生二人で泊まるのは心配だからとお父さんがお手伝いを条件に安く泊まれるようこの民宿を手配してくれたのである。
何年ぶりになるのか、こうしてまた叔母さんに再会できるとは思わなかった。もっとも今では私の年齢の方が上だ。
立ち止まって見ている私に気付いたのか、叔母さんはこちらを向いて会釈をする。優しい笑顔に私の表情も自然と緩む。
「お暑いですねえ」
声を先に掛けたのは叔母さんだった。私も同じように返す。すると叔母さんは不意に頭の上に疑問符を浮かべる。どこかで見た。そんな表情に見えた。年齢を重ねてもあの頃の面影でも残っているのだろうかと、内心焦りながらも口角は自然と上がる。
会話はつかの間だった。互いにこの暑さを苦にしたのだろう。私は軽く会釈をして再び歩き始めた。
海までは目と鼻の先。右手に何艘かの船を見ながらゆるやかな坂を下るとほぼ正面に漁港が広がる。それと海水浴場を遮るように長い防波堤が伸びている。
まるで昨日見た風景のようだ。
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