第98話

「名前の由来通りって感じだな」潤は細長い吊り橋を見て言った。


『うすらびの吊り橋』の、うすらび、とは軽い力でも割れてしまうような氷を言うらしく、それがまたこの吊り橋の怖さを増す要因になっているに違いない。


 数分歩いた先から見えたのは滝で、『うすらびの滝』と呼ばれるものだ。圧倒されるほどの滝ではないものの、ここに来なければ見えないため、それをバックにまた写真を撮る。二人並んだところも残そうと近くに居た人にシャッターをお願いした。


 一度渡っていたので帰りの吊り橋は少しだけ怖さが和らいだ。車までは回り道して緩やかな道を選ぶ。濃い緑に包まれた歩道は心地よい空気に包まれていて、掴んだ手だけがほんのり温かかった。


 緩やかな車の流れに乗って予約した宿に到着したのはチェックイン時間の三時を少し回った頃だった。




「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました―――」


旅館快円りょかんかいえん』と記された扉を抜けると満面の笑みを浮かべた主らしき男性が私達を出迎えてくれる。それから声を聞きつけたかに茶衣着を纏った仲居さんが数人顔を見せて手荷物を早々に受け取ってくれた。


 やがて着物の女性が現れ、女将だと言って腰を折った。ロビーは旅館相応といった広さで、大きな窓からの採光が全体を明るく見せていて清潔な印象を受けた。


 ロビーで宿泊票を書き上げた時だった。主が記された名前を見て私に問いかけて来た。



「日向さんと申しますと、もしかして『グランド・ツーリスト』の方でいらっしゃいますか?」


 宿泊票にはそれぞれの名前を書いた。嘘をついても仕方がないと私は首を縦に振った。


「さようでしたか。それは、それは。いつも当館をお引き立ていただきありがとうございます」


 主はそう言ってから、すぐに女将を呼び寄せそのことを伝えた。


「いつも大変お世話になっております」


 柔らかい声で女将が微笑む。着物の似合う奇麗な女性に潤もやや見惚れている気がする。だから一瞬だけ睨んであげた。


「そうとわかれば、いつも以上にサービスさせていただきますので―――」


 まるで胸でも叩かんとする勢いで主は私達に目を向ける。


「お心遣いは嬉しいのですが、あくまでプライベートでお邪魔しましたので普段通りでお願いできればと」


 特別待遇されても困る。そう思った私はすぐに掌を振る。それでもきっと言葉通りにはいかないだろうと思った。部屋は二階の八畳間で『もみじ』と記されていた。部屋番号でないところが旅館らしくて良い、と潤が部屋の中を見回しながら言った。


 それから障子を開けて外を眺める。私も隣に立った。絶景とまでは言えないが、温泉宿に来た雰囲気が山々の景色から感じ取れる。潤はその景色にしばらく見入っていた。


「どう?」


 私が問いかけると潤は座卓の脇に置かれた座椅子に腰を下ろし、「悪くない。さすが『グランツ』お勧めの宿だ」と言って笑みを浮かべた。

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