第99話
「名前を書いただけでバレちゃうとは思わなかったんだけど」
私は照れ臭そうに笑う。もっとも予約をお願いする時には社名と担当者名を必ず言う。ありふれた苗字でもないのでピンと来たのかもしれない。
夕食は六時半からと言われたので、一休みしてからは近くのストリートに散策に出向いた。数軒の宿屋や土産物店などが並んでいる温泉街の道で、あれこれ眺めながらそれぞれの家の土産などを物色したりする。
「暗くなったらまた来よう」潤が楽しげに呟く。
恐らく視線の感じから遊技場なのだと思った。宿に戻った私達は浴衣に着替えて浴場に向かった。ここの売りは白色の濁り湯で、今年に入ってから数組のお客さんを案内していて評判も上々だ。潤も喜んでくれるに違いない。私はそう思いながら女湯の暖簾をくぐった。
「お風呂どうだった?」
濡れた髪を整えながら部屋に戻ると窓際で潤が煙草を吸っていた。
「ちょっとピリピリするっていうのか、強酸性だからなんだろうな。それがまた温泉らしくて良かったよ」
二の腕を摩るように潤が頷く。満足そうで私は頬を緩めた。
ここの売りのもう一つは、食事が部屋出しであるということ。大抵は大広間か何かでお客さん同士で顔を合わせるものだが、この旅館はそれぞれの部屋で食事が摂れる。それがまたプライベートを重視するお客さんには好評で、ここを選んだ一つの理由でもあった。
「失礼します」
茶衣着の仲居さんが数人現れて、座卓の上に料理を並べていく。私と潤はそれを邪魔にならない場所でじっと眺めている。とにかくテキパキと手際が良い。ものの数分ですべての配膳が終わった。鍋の下に火を点けたのを見て、座卓の脇に腰を下ろす。並べられた数々の料理は目にも鮮やかでどれも美味しそうだ。
「おビールは一本でよろしかったでしょうか。それとこれは主の方からなんですが―――」
仲居さんが小さい瓶を差し出す。どうやら地酒らしく潤と私は何度も頭を下げた。
「これも『グランツ』のお陰かな?」
引き戸の締まる音を聞いて潤が微笑む。私は同じような顔でビールの栓を抜いてお酌をした。新婚さんの気分がする。グイッとそれを一口で飲み干すと潤は料理に手を伸ばす。私も箸を運んだ。普段家では食べられないものばかりで、目にもお腹にも美味しい。
ただ、思いの外、量が多かったので食べきれないのが残念なところ。潤ですら同じだというのだからけっこうな量だ。
ビール瓶が空になると、カリカリッと音を立てて頂いたお酒を潤がグラスに注いだ。せっかくだからと私も半分ほど注いでもらった。ほんのり甘い香りで飲みやすそうな感じがする。
でも飲めばお酒。喉を過ぎるとカーッとなった。
夕方歩いたストリートに下駄の音を響かせたのは食事を済ませて三十分くらいしてからで、他の宿の浴衣を着た人の姿も意外と多く見られた。お盆や長期連休の時は避けながら歩くようになるのかもしれない。
暗くなると山間ということもあって昼間とは気温が変わる。そのためあらかじめ浴衣の上に丹前を羽織っておいた。ただ、お酒のせいか顔は少し温かく感じる。
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