第84話

 この歳になると、そんなこともあったと笑い話にも聞こえそうな気がする。決して恥じらいを忘れたわけではないけれど、当時と全く同じというわけにはいかない。もちろんこれは私だけに限った話ではなく潤にしても同様。つまりはお互い様ってことになる。


 そんなことを考えた時、不意にサンダルの底が地面に吸い付き、過去の淡い記憶が遮断された。辺りを見回す。今しがたまで見ていた景色とは異なるものの、見覚えがあるのはなぜだろう。衰え気味の脳をフル回転させる。


 直後、口がアッと開く。驚きと共に忘れていなかったという喜びでもある。


 ―――数十年前の記憶。


 足を止めた場所にあったのは初めて茜さんに連れて来たもらった定食屋さんだ。見たところあまり変わった様子はない。だから記憶とより結びついたのかもしれない。


 私はしばしその趣のある店を眺めていた。それから二度ほど頷く。


「ここへ寄れってことなのね」


 暖簾をくぐり引き戸に手を掛けると、幸いなことにあの夜食べたラーメンの味が薄っすらと蘇ってくる気がした。喉が鳴る音を引き戸の音でごまかした。


「いらっしゃいませ~!」


 ワンピースどころか身体まで通り抜けそうな声が私を出迎える。ただ、その声を発した主を見てしばし固まってしまった。きっと凄い顔をしていたんじゃないか、と後で思うほど衝撃的だった。


 白の調理衣を纏ってニッコリ微笑むショートカットの女性。それはいつぞや私をここに連れて来た茜さん本人だった。カー用品店を辞めたまでは耳にしていたけれど、まさかここで働いているとは夢にも思わなかったので唖然となるのは当然。



「ま‥‥まだ、大丈夫かしら?」


 だからなのか、冷静を装いつつもこんな間抜けな言葉しか出てこなかった。


 茜さんは幾分か苦笑を交えて一つ頷くと、「お一人ですか?」と指を一本立てた。私はそれに応えてから物珍しそうに店内を見回す。以前来た時に居た親父さんが何か煮物をしていて、茜さんと同じくらいの年齢の男性が洗い物をしている。


 三人の目が私に集中する。誰もが同じような表情をしている。店内には数人のお客さんが居て、それぞれ食事を楽しんでいた。


「お座敷も空いてますから、よろしかったらどうぞ」


 茜さんが差し出す掌に従うように私は一番奥の座敷に腰を下ろす。ここは以前、茜さんと一緒に座った場所でもある。とは言え、現在、茜さんはカウンターの向こう側に居る。なんだか不思議な気分だ。


「うちにいらしたのは初めてですか?」


 ワンピースの裾を畳み終える頃、茜さんがお茶を持って来てくれた。


「え‥‥ええ。どういうのか。私、初めてのお店は落ち着かないというのか―――」


 頭を数回下げながら適当な言い訳でごまかしてみた。


「勝手がわからないですもんね。でも畏まるような店じゃありませんから」


 茜さんは笑いながらお茶をテーブルの上に置いた。


「誰からかお聴きになっていらしたんですか?」


「え‥‥ええ。以前、姪っ子がこちらにラーメンを食べに来たらしくて。それで美味しかったから一度行ってみたらって話してたものですから。確か、カー‥‥用品店に勤めていた人に連れて来てもらったとか―――」


 記憶を探る素振りをみせ、それとなく会話を続ける口実を匂わせると、茜さんが何かに反応したように私の顔をじっと見た。

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