第140話

「こりゃ良い酒だ。お父さんによろしく言っといてくれ」


 片付けた包み紙で何か思い出したのか、一旦テーブルを離れた潤は小さな箱を手に戻って来た。それも奇麗に包装されていた。


「会社からも記念品をもらったんだ。プレゼントじゃなくてごめん」


「別に謝らなくてもいいわよ。今日は潤が主役なんだから」


「主役か」と嬉しそうに呟いて再びバリバリと音を立てる。真っ黒い化粧箱の中には腕時計が納まっていた。


「なんだか高級そうな感じね」

「去年、同じものをもらった人が悪いもんじゃないって話してたよ。今使ってるやつもだいぶくたびれて来たからちょうど良かったかな」


 感慨深そうに眺めてからその目をゆっくりと私の方に向ける。


「今夜はお酌付ですか」


 カリカリという音を立てたあと、私が瓶に両手を添えると、潤が惚けた顔でグラスを手にした。


「そうよ。こんな日に手酌じゃあんまりでしょ」


 注ぐ際に漂ってくる香りだけでもお父さんの奮発ぶりが分かりそうだ。潤がその香りを楽しむようにして口へと運ぶ。見ているだけでもその味が伝わって来る気がした。


「これは俺がお父さんに定年の時に贈ったやつよりも高いんじゃないか」


 香りも味も良いのだろうと思った。何度も鼻をグラスに近付けている。こんな潤は久しく見ていない。私の顔も自然と笑みになる。刺身もどうやらお口に合ったようだ。


「美味いな~」と潤が数回噛んで目を見開く。


「でしょ!だってスーパーのじゃないもの。わざわざ遠回りしてお魚屋さんに行ったんだから」


 私の言葉が引っかかったらしい。感心したように見ていた潤の目が徐々に変わるのがわかった。



「‥‥‥遠回りして?」


「実はそのお魚屋さんって会社の子のおうちなの。美咲って高校の後輩でもあるんだけど、その界隈では有名らしくて私が帰る時間だと良いところは売れ切れちゃうから、美咲にお願いして切り分けておいてって電話してもらったのよ」


 潤が刺身に箸を伸ばす。


「グランツは旅行だけじゃなく魚も手配出来るんだな」


 口に頬張ってから云々と頷く。私も食べてみた。適度に脂がのっていて口の中でとろける感じがする。美味しかったと休み明けに美咲に報告しよう。


 四合瓶のお酒が半分ほどになったところで、「残りは次回の楽しみにとっておくか」と自らに言い聞かせるように潤が呟く。もう少し飲みたいのはやまやまだが、という顔にも見えなくもない。きっと私のお尻を触ったことでも思い出したのだろう。


 悟られないよう私はクスッと笑いを漏らした。


 こんな穏やかな時間を味わえるのも夫婦二人だからこそで、子供でも居たら日々の生活は一変するに違いない。


 寝返りをうった。ハイハイした。掴まり立ちが出来た。歩けるようになった。慌ただしい中にも子供の成長という変化が見られる。しかし、私達の場合は至って平凡で互いの老いすらもわからない。


 とはいえ夫婦でやっていくと決めた以上、二人だけならではの時間を満喫する以外にはない。

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