第149話
「今日はおめでたい日でもあるからお刺身を用意しておいたのよ。梨絵ちゃんから好きだって聞いてたから」
お母さんの声に、一瞬で潤は疲れが飛んだという顔を見せた。
その日の夜、届いて間もないという冷蔵庫からビールと盛り合わせを取り出し、お母さんはウキウキとした声でテーブルへと運んでくる。私もテキパキとそれを手伝う。これがなんだか懐かしくも感じる。
「やっぱり新しい冷蔵庫っていいわね、お母さん」中を覗き込みながら声を浮かせる。
「もう、いつまで開けっ放しにしておくの」呆れるお母さんの声もいつになく明るい。
ビールくらい俺が、と潤が腰を上げかけるとお母さんがそれを制した。
「潤さんは力仕事で疲れてるでしょうから」
「それをいうならお母さんたちも一緒じゃないですか」
立つべきかこのまま座るべきかと悩んでいる様子だったので、今日くらいは良いんじゃないの、と私は目で話しかけた。潤も納得したようだ。プシュッと音を立てビールをグラスに注ぎ始めた。
「なに、梨絵ちゃん。お酌してあげないの?」
「も~っ!お母さん、新婚じゃないんだから」
そんなことは百も承知だとお母さんの顔は言わんばかりだ。恐らく引っ越し初日くらいはと思ったのだろう。
「手酌は慣れてますから」潤は手をヒラヒラさせて笑った。
「ね!潤もそう言ってることだし」
潤と呼び捨てにすることにお母さんたちもだいぶ慣れた。初めは年上相手にと戸惑ってはいたものの、次第に耳に馴染んだのかあれこれ言わなくなった。
お母さんもテーブルに着く。新しい生活のスタートを感じ、どの顔にも適度な緊張と喜びが現れている。出来れば四人で囲みたかったが、贅沢も言えない。それでもお母さんと目が合うだけでつい笑ってしまいそうになる。案外、こんな平凡な時間に幸せは潜んでいるのかもしれない。
「明日は私だけで病院行って、それからお買い物してくるから二人は残ったものの片付けをしてちょうだい」
「いや、俺たちも行きますよ。片付けっていってもたいした量はないですから」
ごくりとビールを飲んでから潤が私の方を見た。一つ頷いてお母さんを見ると、ゆらゆらと顔を振った。
「いいのよ。ほら、三人で顔を揃えて行ったりするとお父さんも不審がるでしょ。それに家に居た方が早く慣れるでしょうから」
「慣れるって、もともと私はここに居たんだから」
「梨絵ちゃんに言ったんじゃないの!」
それもそうだと私は口をへの字にした。
髪を乾かして洋間の扉を開けると、潤がベッドに横たわって天井を見上げていた。エアコンによって熱気の籠っていた部屋が心地いい温度に変わっている。
「今日はご苦労様でした」
声を掛けた途端、潤が鼻で笑った。
「俺一人が頑張ったわけじゃないさ」
私を一度見てから周囲に目を向ける。
「なんだかすごく新鮮な感じがするよ。そういえば、この部屋はずっと空いたままだったんだろ?」
「ええ。もう一人子供が出来たらここか潤の部屋を使わせるつもりだったみたい。でも私一人だけだったから」
何かを考え込むように潤は難しい顔をした。
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