第150話
「どうしたの?」
「いや‥‥‥一人だけだったんだなって」
あまりに当たり前過ぎて拍子抜けした。だから言い返すこともせず私は隣に横になった。そして同じように天井を見上げる。確かに潤の言うように新鮮な感じで、まるで二人だけの新居へ越したかの気分だ。しかし、夢の一コマは潤の言葉で消え去った。
「今夜はお父さんと一杯やりたかったな‥‥‥」
ため息にも似た声だった。視線を向ける先には寂しげな顔があった。
「もう一緒には‥‥‥飲めないのかな」
独り言のように呟く潤に身体を寄せる。私もどこかで覚悟しているのか否定する言葉は出なかった。
「いつだったか、奇跡なんて話したことがあったけど、もし起こせるのだとしたらお父さんのために俺たちの分を投げうっても構わないと思ってるんだけど」
「‥‥‥ありがとう」
私は涙を浮かべ潤の身体をきつく抱きしめた。
潤と共に病院を訪れたのは翌週の日曜だった。ある程度の話は聞いているのだろう。お父さんは満面の笑みを浮かべる。
「どうだい住み心地は?」
「だいぶ慣れてきたっていうか快適に過ごさせてもらってます」
潤の言葉に嬉しそうに頷いてから咳き込んだ。
「具合はどうなの?」
「ああ、まあ、あまり変わり映えしないな」
差し詰め良くも悪くもないといったところか。ただし、それは楽観的に考えれば進行していないとも捉えられる。
「お母さんは一緒に来なかったのか?」
「ええ。買い物してからこっちに回るって話してたけど」
なるべく自然を装う。これも三十路という人生経験のお陰なのか。とはいえ二週間前と明らかに違う肌艶に気持ちだけは揺さぶられていた。
「早く戻って一緒に飲みたいもんだね」
「いつ来ても良いようビールはたっぷり冷やしておきますから」
皺をさらに刻んで楽しみだとお父さんは呟いた。
病院の駐車場でお母さんに会った。快方に向かっているわけでもなく、照り付ける陽射しもあってか会話は少な目。車のドアを開くと中から熱気が飛び出してくる。わずか一時間程度でも車内の温度を上げるのには十分だった。今日も予報では真夏日になるという。
走り出すと同時に潤が運転席と助手席の間にあるスイッチですべての窓を開ける。すると熱を帯びた風が私の短い髪を揺らした。じっと窓の外を見つめたまま、私は乱れた髪も気にせずにいた。
潤も私も仕事は休まずに行った。その日何があったとか、どんな他愛もない話題であっても話し相手が居るだけで気も紛れるに違いないと、私はお母さんの楽しそうな顔に隠された気持ちを汲み取っていた。もちろん私達だって同じで、日に日に三人での生活が自然に感じられていくのがわかる。
日に日に感じられるものは他にもある。
それはお父さんの病状だった。
八月に入ると倦怠感や食欲不振を訴えるようになった。私達が顔を見せても起き上がれずに寝たままで笑みを浮かべる。それもやっとという風で見ているのも辛い。だから起きている時はなるべく笑って話しかけるよう努めた。
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