第104話
記録は破られるためにあると誰かが言った気がするけれど、約束も同じような気がする。免許を取って車を買ったら横に乗ってくれると先輩は約束してくれた。先ほど頭に思い浮かべた温泉の話も結局のところ同じで約束は果たされなかった。
温泉のポスターから目を逸らし、雪子さんに聞こえないように吐息を漏らす。
「温泉なんてポスターやテレビで眺めるだけで、こんな商売してたら行けないままで終わっちゃいそうな気がしますね」
カウンターを拭きながら雪子さんは苦笑を浮かべる。
「連休とかは御取りにならないんですか?」
「お正月とかは休みますけど、いろいろやることもあるので。それ以外は定休日くらいだから旅行なんてとても―――。なんだかんだ言って仕事が好きなんでしょうね」
「そういうところは晴美さんも一緒だったかしら」働き者は血筋かもしれない。と私は目を細めて呟いた。
誰も居ない方を見上げ雪子さんが僅かに口角を上げる。
「そういえば、うちの姉とは仕事か何かで?」
「あ‥‥ええ。ほら、あそこ。え~と‥‥やだわ。もう、名前が出てこない」
どこで働いていたのかは私も知らない。ただ、こんな時は歳を重ねたからこそのごまかしが利く。
「スーパーの『フレッシュリー』ですか?」
「そうそう!もう歳は取りたくないわね。そこのお惣菜コーナーで一緒だったの」
滲みそうな額の汗を隠すように私は残ったコーヒーを口に運ぶ。すっかりホットはアイスに変わっている。火照り気味の身体にはむしろそれがちょうどよく思えた。
やがてカウンター越しに湯気と特有の香りが立ち上る。香りや会話の邪魔をしないBGM。話の内容こそ違えば穏やかな午後とも言える時間だっただろう。
空になったカップを眺めていた時だった。雪子さんが私に新しいカップを差し出す。
「え?あの‥‥私、何も‥‥‥」
「これは私からのサービスですから。姉や由佳理ちゃんへのお礼と言うのか」
この空間に相応しい笑みを浮かべて雪子さんが可愛らしく首を傾げる。自分のも淹れたのかカップを口に運んで一つ息を吐き出した。私はそれを横目で捉えてから、カウンターにポツンと置かれた小さいガラス瓶をじっと見つめる。雪子さんも気付いたようだ。
「由佳理ちゃんが海に出掛けた時に買って来てくれたんですよ。お土産だって言って。今では形見みたいになっちゃいましたけど」
ガラス瓶には小さい貝殻がたくさん詰まっている。確か二度目の時だっただろうか。先輩がこれを買ったのを覚えている。楽しそうな笑顔が浮かんだ。
「気配りが出来るって言うのか、そんなところが目に留まったんでしょうかね。うちに来るお客さんと付き合い始めたみたいで―――」
一旦、そこで雪子さんが言葉を切る。
「ただ、なんだかややこしい事態になってるって心配はしたんですけど、私はあの男性と由佳理ちゃんは結婚するんじゃないかって思ってたんですよ。女の勘とでも言うんでしょうかね」
よもやその男性が目の前にいる私と結婚したとは夢にも思わないだろうし、仮に話したところで信じてはもらえまい。たぶん、当時の潤はまだ二十代だ。私は五十の半ば。下手をすれば親子ほどの年齢の違いがある。
つい苦笑が漏れた。
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