第103話

「先に戻ってるから」


 扉の閉まる音が聞こえたのを合図に私は湯船から出た。部屋に戻ると布団は既に片付けられていて、茶衣着の仲居さんが朝食の用意をしていた。



「ゆっくりお休みになられましたか?」


「はい」私は額の汗を拭いながら笑みで応えた。


 小さなお釜の下には既に火が点けられている。お味噌汁にお漬物。朝食に有りがちな焼き魚や納豆と言った類のものはなく、見ただけでは味の想像ができない料理がいくつも並んでいる。


「それではごゆっくりどうぞ!」


 配膳を終えた仲居さんが手際よく去っていく。それだけでも朝の忙しさが感じ取れた。お釜の蓋を取ると中は炊き込みご飯になっていて、湯気と共に食欲をそそる香りが漂った。


 料理はどれも美味しくて箸が進む。潤のお釜はあっと言う間に空になった。



「本日は誠にありがとうございました」


 荷物を手にロビーに向かうと主と女将が揃って腰を折った。私達も穏やかな表情で会釈をする。


「何かご不満の点などございませんでしたでしょうか?」


「いえ。不満など何も。お風呂も良かったですし、お料理も大変美味しくて食べ過ぎちゃったくらいですから」


 私の声を主と女将が目を細めながら聞いている。時折合わせたように何度か頷く姿は仲睦まじい夫婦の呼吸を伺わせる。


「今回こちらにお世話になって『快円』さんの素晴らしさを実感させていただきました。今後もお勧めの宿としてお客様をご案内させていただきたいと思います」


「誠に恐れ入ります」


 主と女将が深々と頭を下げる。そして、「これは当館からほんのお印ですが―――」と土産らしき箱を差し出す。包装紙には宿名が入っている。


「そんなことされては困ります」


 丁重にお断りしたものの、相手も気持ちだからと譲らない。何度か押し問答の末、最後は私が折れる形で御厚意に甘えた。


 主と女将が玄関の外で私達を見送る。私と潤は駐車場に向かいながら何度も振り返って頭を下げた。



「良いところだったな」


 軽やかな足取りと共に潤が青い空を見上げながら呟く。


「温泉?それとも宿が?」


 潤に腕を絡ませて訊くと、「両方さ」と一言。表情だけでも満足しているのが伺える。


「ホテルとは違う距離感って言うのかな。また泊まりたいって思っちゃったよ」


「私も。泊った人は同じように思うのかもしれない。『快円』さんのところはリピーターっていうのがほとんどらしいから」


 云々と頷いてから潤は私の目を見つめた。


「もう一度泊りに来よう。新しい家族でも増えたら」


 何気なく呟いた一言に私は未来の絵図を頭に思い描く。子供の手を引いて歩く姿や、子供を前に得意そうに銃を構える潤が浮かんだ。


「そうね。考えるだけでなんだか楽しそう。約束よ!」


「わかった。約束する」


 歩きながら小指を絡め合う。いつになるかわからないまでも、近い将来必ず訪れるであろう日を互いの瞳の中に輝かせた。

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