第89話

「さ!話してばかりでもなんだから召し上がってください」


 お母さんに声を掛けられ私は紅茶を口に運ぶ。ケーキはどうしようかと迷っていた。


「うちはご覧の通り、堅苦しいところは無いから安心してください。そういえば、潤がよくそちらにお邪魔してるって話を聞いたんですけど、粗相はしてないでしょうね?」


 私と潤とを交互に見ながらお父さんが尋ねて来る。


「いえ‥‥特には」


 不意に泊まった夜のキスを思い出して、適当に言葉は濁した。


「何度もお酒を戴いたって話だけど、手ぶらでただ酒ってことはないんだろうな?」


 お父さんの目は潤に向けられる。慌てて潤が手を振った。


「いい歳してそれはいくらなんでも。手土産くらいはちゃんと持参してるって」


 チラと横を向くと潤と目が合った。それから紅茶をソーサーに戻し、「いろいろ戴いてます」と頭を下げた。


「そう。じゃ~、まずは一安心だ。でないと親が恥を掻くことになるからな」


 安心したのか、お父さんはフォークを手に取りケーキを食べ始めた。それに聡さんも続く。一気に卓の上が賑やかになった。



「そういえば、潤ちゃんから日向さんは旅行会社にお務めだと聞いたんですけど、やっぱり外国とか何度も行かれてるんですか?」


 由紀恵さんがケーキを手に摂りながら尋ねて来る。


「いえ、私のところは大手の下請けみたいなところですから、同行とかは一切ないんですよ。だから海外とかも行ったことがまだ無くて――」


「あら、じゃ~、いずれそんな機会も来るかもしれないわね」


「ええ」とも言えず小首を傾げてその場を繕った。


 モグモグさせたり紅茶を飲んだりしながら、あれこれと話は続いた。強張っていた表情も時間と共に徐々に緩んでいく気がする。楽しい家庭が何より私をホッとさせてくれた。





―――「どうだった?」


「やっぱりちょっと緊張したって言うか‥‥足が少し痺れちゃった」


 八神家を後にした私は潤のアパートによって足を崩した。


「なんかそんな感じがしてるのがわかったよ。ちょっと突いてやろうかなって思ったんだけど」


 足を摩る私を見て潤が笑いを浮かべる。


「も~っ!それやったらあとで酷いんだから」


 テーブルの椅子に座る習慣のある我が家では正座はほとんどしない。だから長時間の正座は正直辛いものがある。私は口を尖らせてから淹れてもらったインスタントコーヒーを啜った。


「だけど、梨絵から潤ちゃんって言われたときは、ちょっとびっくりしたな」


「だって、皆の前で呼び捨てには出来ないでしょ」


 カップをテーブルに置き、取っ手の部分を指でツンツンする。



「そりゃそうだけど。でもいずれは皆と同じように呼び捨てになるんだろうな」

「皆って?お母さんも?」


 驚いたように潤に視線を向ける。


「あ~。博之って呼び捨て。義姉ねえさんもそう。いうなればこれは我が家の習わしみたいなものかな」


 いつかそんな日が来る。


 潤の穏やかに浮かべた笑みには将来の期待も含まれていた気がする。


「でも、みんな優しそうで安心した」

「そうか、じゃあ、良かった」


 潤はコーヒーをゴクリと飲んで言葉と一緒に安堵を吐き出す。少なからず潤も緊張はしていたのだろう。


「疲れただろ?今日はゆっくり寝るといい」


 あるいは自分に言ったのかもしれない。家まで私を送り届けてからはそのまま立ち寄りもせず、キス一つして潤は帰った。

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