第143話

「お父さん、本当は婿に入って欲しかったんだろうな」


 その日の夕食時、ビールを煽ってから潤がポツリと呟いた。


「お婿さんに?」


「ああ。普通そう考えるだろ。だって梨絵は一人娘だから。それを俺はお父さんたちから引き離してしまった―――」


 いつになくしみじみとした口調に感じられた。


「なによ、今更そんなこと言って」


 だから尚のこと私の声は呆れたものとなった。十年も経過しているのだ。いまさら何をと思うのは当然だろう。


「その代償に孫でも見せられれば良かったんだろうけど、それすら出来ないんだからダメ亭主もいいところだ」

「も~っ!またその話をするの?」


 キッと潤を睨んで右手を軽く挙げる。慌ててグラスを置くと叩かれては困るとばかりに潤が両腕を挙げた。すると次第に互いの目が穏やかに変わっていった。


「それで一週間考えたんだけどさ。ちょうど十年って節目の年でもあるし、お父さんの晩酌に付き合うのも悪くないかなって」


「それって?」


 声と共に顔が緩むのがわかった。潤の顔も清々しく見える。


「契約更新はしないってことさ。お父さんところに行こう。また手を煩わせるのも気が引けるから今回は引っ越し業者に頼んだ方がいいかなって」


 私が胸をトンと叩いたのを見て、グラスが潤の口元で止まった。


「びっくりして喉でも詰まらせたか?」


「違うわよ!私に任せてって意味。会社の佐々木さんって、ほら披露パーティーにも来てくれた人。あの人の旦那さんが引っ越しの仕事しているのよ」


 口に含んだビールを飲み込むと潤はむせ返った。そして咳き込んだ後で、「グランツ様々だな」と笑った。


「あとで梨絵の方から連絡しておいてくれるかな?」


「わかったわ。でもそれを話すのは、お父さんがお医者さんに行ったかどうか聞いてからね」



 こどもの日を過ぎてもお母さんからの連絡はなかった。薬でも飲んでいればとお父さんもごねているのだろう。ただし、今回ばかりはそうとも言っていられないはず。なぜなら医者に行くことが返事をする条件でもあるからだ。


 契約更新しないことは二ヶ月前に不動産屋さんに連絡しなければならない。住み始めたのが九月だから七月がタイムリミット。六月は雨が心配なので七月早々に越そうと会社の佐々木さんにもその旨を話しておいた。


「そう!実家の方に―――」


 複雑ながらも佐々木さんの表情はどちらかと言えば明るい。


「いくら家賃を払っていても無駄になるからって」


 一番説得力のある言葉を私は口にする。


「それもあるでしょうけどね。やっぱり手元に置いておきたいんじゃないの?一人娘だったんだから」


 伊達に歳は重ねていない。伏せておいた理由を小首を傾げながらずばり言い当てた。


「いずれにしても任せておいて!旦那には格安料金でやるよう発破をかけておくから!」


「いえ、そんなことまでは。ただでさえ無理を言ってるんですから―――」


 私の声に一つ微笑んでから佐々木さんは手をヒラヒラさせて自分の席に戻った。

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