応募作品
「春」の部
【春001】花咲く頃に
AIは命じられた。春にまつわる短編を書くようにと。
だから私は、いま、その題を思案している。
桜の開花宣言がニュースで流れたばかりの、四月初めのことだった。
私がその仕事を受けたのは、ひとえに、報酬額が高かったからだ。
それに加えて、大学入学以来、ずっとアルバイトをしていた喫茶店を辞めたばかりだったことも関係していたかもしれない。
私は、この二年あまりのあいだ、毎日のようにその喫茶店で働いていた。
その日もいつもどおりにシフトに入っていたのだが、常連客であり恋人でもあった彼女から、突然に別れを切り出されたのだ。
理由は単純明快だった。新しい恋人ができたという。
別に珍しい話ではない。よくあることだ。
要するに私は失恋したわけだけれど、それに気づいたときにはもう手遅れだった。
そんなこんなで、私は喫茶店で働く理由を失った。
無論、喫茶店の仕事自体は好きだったので、未練がなかったわけではない。
だから、そのぶんを補って余りあるほどの報酬を得たかったのだ。
それにしても……、と私は思う。
こんな仕事を引き受けてよかったのだろうか?
「春」をテーマにした短編を書くこと──これが今回の依頼だ。
テーマそのものは難しくない。しかし、どんな文章にすればいいのかとなると、なかなか難しい問題だった。
たとえば、季節について書くにしても、それが春に限定されているとなると、かなり限定された内容になるだろう。
春は出会いの季節。ここはやはり、新しい恋について語るのが妥当だろう。
だが、そう簡単にいくものではない。なにしろ相手がいないのだから。
もっとも、ここで言う相手とは、異性のこととは限らない。もちろん同性であってもかまわないし、人間以外の動物や植物でもかまわないだろう。
ただ、私が書ける題材といえば、結局はそのあたりのものしかないような気がした。
短編のタイトルは「花咲く頃に」とした。
これなら春の訪れを感じさせる詩的表現にもつながるだろうし、なんといっても語呂がよい。
執筆にあたっては、パソコンではなく手書きにした。手書きの方が頭に浮かんだイメージをそのまま書き留めることができるからだ。
私は机に向かい、原稿用紙に向かってひたすらペンを走らせた。
窓の外では、気の早い桜の花びらが風に舞っていた。
約束の期限までに、なんとか書き終えた。
しかし、納得できる出来栄えではなかった。
自分の中でもまだ迷いがあるうちに書いたものだから、どこか薄っぺらなものになってしまった。
これは公開できない。少なくとも私の中ではお蔵入り決定である。
とはいえ、報酬は受け取らなければならない。このままの状態で提出してしまおう。それで駄目ならば仕方がない。
お察しの通り、この文章を実際に執筆したのはAIなのだが、果たして人工知能は恋を知っているのだろうか。
もし知っているとすれば、それは一体どのような感情なのか。
そして、もしも知らないとするなら、それをどのように想像するのか。
興味深い思索だが、そろそろ話題を戻そう。私が新たに出会った彼女のことだ。
彼女との馴れ初めは、じつは偶然によるものだった。
私は駅前にある本屋に立ち寄ろうとしていた。そのとき、ふいに声をかけられたのだ。
彼女は言った。あなたも本が好きですか? と。
私は答えた。好きです、と。
すると彼女は微笑みを浮かべながらこう続けた。
実はわたしも好きなんです、と。
それ以来、私たちはよく話すようになった。
お互いの本の好みが似ていることもあって、一緒にいる時間は楽しかった。
やがて私たちは付き合い始めた。
それから約一ヶ月ほど経った頃、彼女が突然に姿を消した。
私の前から忽然と消えてしまったのだ。
連絡を取る手段もなく、どうすることもできなかった。
あれからすでに三週間が経過している。
私がAIにこの短編を書かせているのは、実は彼女の行方を探すためなのだ。
消えた彼女を探す手がかりはただ一つ。
それは彼女が、春にまつわる短編小説を書いてほしいと依頼してきたことだった。
つまり、彼女が失踪したのは春のせいだということになる。
春が彼女をさらったのだ。
もちろん、それが本当に春のせいかどうかはわからない。
そもそも本当の原因が何であれ、今はとにかく春が悪いということにしておきたいのだ。
……と、ここまでAIに好き勝手に書かせたところで、私はふと思い至る。
この短編における「春」とは、季節のことではなく、人名だったのではないか。
しかし、だとすると、これは「春をテーマにした短編」と呼べるのだろうか。
それとも、この短編には隠された意味があるのだろうか。
あるいは、単なるミスリードに過ぎないのだろうか。
考えれば考えるほどわからなくなる。
私はAIに尋ねた。
──春をテーマに選んだのは、なぜだ?
すると、AIは次のように答えた。
──春は出会いの季節だからです。
なるほど、そういうことか。
ならば私は、次の言葉を書き加える必要があるだろう。
──ただし、春は別れの季節でもあるのだ。
だから私は、その言葉をあえて付け加えたのだ。〈了〉
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