【冬016】今日はそういう日

「こちらこそ。宜しくお願いします」


 女性は深々と頭を下げて部屋へと戻っていった。

 私が入居したときから空き部屋だった隣の部屋に引越して来たそうだ。


「誰?」


「うん。お隣に引越して来た人が挨拶に来てくれたの」


「へえ。今どき珍しいね」


「うん。リボンが付いたバスタオルだ! 可愛い」


「おお、流石はタイミング良い子ちゃん。俺の為にバスタオルが舞い込むなんて」


 私の事を『タイミング良い子ちゃん』と呼ぶ彼は、自称『最悪のタイミング男』。

 全ての事が上手く行かないと、いつも嘆いている。

 頂いたバスタオルを喜んでいるのは、彼の身に起こった事が原因。

 夏頃から調子が悪かったアパートの給湯器が壊れてしまったそうだ。

 修理不能で入替は明日以降になると言われ、私の部屋にお風呂を借りに来たのだ。


「ここに来るまでも最悪だったからなぁ。このジャケットもさぁ」


「さっき聞いたよ」


「はいはい。タイミング良い子ちゃんには分からない苦労なんです」


 出かける準備をしていると、ジャケットが埃だらけなのに気が付いたらしい。

 粘着テープのコロコロで埃を取ろうと、床掃除で汚くなったシートを剥がそうとすると最後の一枚。

 寒くて駅へと急ぐと全ての信号に掴まったそうだ。

 彼はいつもそうだと言う。

 急ぐとき信号は赤ばかり。逆に止まって電話を掛けたいときは到着するまで青が続く。

 傘を置いて行けば雨に降られ、持って行けば晴れて何処かに傘を忘れて来る。

 目覚まし時計の電池が切れるのは、寝坊出来ない日の前日で替えの電池は無い。

 俺の人生は本当にタイミングが悪いことばかりでイライラすると、いつも私に嘆く。


「本当に君はタイミング良い子ちゃんだよね。俺は最悪。羨ましいよ」


「ねえ。私はいつだって視界良好でタイミングばっちりだと思う?」


「まさにそんな感じ。君と一緒に居る時だけはタイミング良い事ばかりだよ」


「そんな訳ないじゃない。上手く行かない日は『今日はそういう日なんだ』って思う様にしているだけ。もちろん、それでも上手く行かない日もあるけれど、嫌な気持ちにならなくて済むもの」


「いやいや、君はきっと幸せな人生を送って来ただけだよ。恵まれた人だね」


「違うよ! 私の話しを聞く?」


 それまであまり話した事が無かった自分の話。

 最悪の労働環境だった会社。深夜まで終わらない仕事、急かされる日々、休日の前日に舞い込む依頼、休日出勤の連続。

 休む間もなく働き続け、上手く行かない事ばかりでイライラする毎日。そのまま数年務めて、体を壊して退職した。

 そして、会社を辞めてホッとできるかと思っていたら、アルバイトで過ごす日々に社会から取り残された気がして、焦ってイライラするばかりだった。

 そんな時に学生時代の先輩と会い。自分がいかに不幸なのか愚痴を聞いて貰っていた時に、先輩から言われた言葉で考え方が変わったのだ。


『結局、自分でイラついているだけでしょう。大切にしないといけない事と、自己満足の執着をはき違えているのよ。ダメな時は直ぐにリセットすれば良いだけよ。ああ、今はそんな時期なんだ、今日はそう言う日なんだってね。それでも解決できない時は、会社でも何でも辞めちゃえば良いのよ……幸せは突き詰めるものじゃないのよ』


 そんな話をしても彼には響かなかった。

 簡単に会社なんか辞められないし、背負うべき責任が違う。俺が必死に頑張っているのは君との……。

 喧嘩がしたい訳じゃ無いから、私からはそれ以上何も言わない。

 ここだけ切り取ると彼は駄目な人にしか見えないかもしれないけれど、私は彼の事が大好き。

 彼が必死に頑張ってくれているのは、私との結婚資金を貯めているからという事も知っている。

 でも、闇雲に無理をして、彼が最悪の人生を送っているとは思って欲しくない。


「あのね、私のお願いをひとつだけ聞いて。明日の通勤は三十分だけ早く家を出て、いつもと違う道で会社までゆっくりと行ってみて」


「うーん。面倒くさいけど分かった」


 彼はお風呂に入ると終電で帰って行った。

 学生の時に独り暮らしの条件として、厳しい父から男性の宿泊は禁止されていた。

 もう社会人だし関係ないのだけれど、約束は数回しか破っていない。

 翌日の夕方、彼からメッセージが届いた。何となく思う所が有ったそうだ。

 それから、彼は少しずつ変わって行った。




 隣の女性はとても静かに生活をする人だった。

 週末は居なかったり、時々男性が訪ねて来て、楽し気な話し声が聞こえてくる程度だった。

 週末に彼に会いに行き、数ヶ月に一度彼が訪ねて来たりと、遠距離恋愛でもしているのだろうと勝手に想像していた。

 小春日和の日に、リボン付きのバスタオルを干して居ると、外から声が聞こえて来た。


「……ハルくん。これで荷物最後だよ……分かった。じゃあ出発しようか……うん、お隣に挨拶してくるね……」


 ドアを開けると、お隣さんが笑顔で立っていた。


「一年しか経って居ませんが、引越す事になったので。ご挨拶に」


「もしかして、ご結婚ですか?」


「ええ、彼が転勤で遠距離だったのですが……」


「わあ。おめでとうございます!」


 お隣さんは笑顔で会釈をすると車に乗り込んで行った。

 駐車場の脇にある梅のつぼみが綻び白い花を咲かせているのが見える。

 春は直ぐそこまで来ている……。




「初めまして。お嬢様とお付き合いさせて頂いておりま……」


「娘を宜しくお願いします。至らない所ばかりかとは思いますが」


 彼が言い終わる前に父は頭を下げてしまった。

 結婚など絶対に認めないと言っていた父とは同じ人とは思えない。


「あ、はい。もっと早くご挨拶にと思っていたのですが、新しい会社に慣れてからと思いまして……」


「まあまあ。貴方はタイミングが良い人ね!」


 横から母が話に割り込む。母はいつもそんな感じだ。


「先月だったら、この人『許さん!』とか言っていたかもしれないわよ……健康診断の結果が芳しく無くてね……まあ、大したことでは無いのよ。それでね、この娘の結婚の事とかが急に心配になったらしくてね。最近そんな話をしていた所なのよ。この娘ったら、昔からタイミングが悪くてねぇ……」 

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