【冬007】晴れた日の晩には

 満月だった。見下ろす雪原はうす青い光をたたえ、ぼくが今いる塔と月とをむすぶ線は銀にかがやく道になっている。


 ぼくに春は二度と来ない。

 それを知っていてなお、心に染みとおる風景だった。広大な平原も、遠い山並みも、かつて多くのひとびとが暮らしたであろう町のなごりも、やわらかそうな白に覆われている。


 今日は昼間もよく晴れていたから、ユイが張りきって料理をしている。エプロンをつけた背中の向こうで、小さな鍋がコトコト鳴っている。

 スープの香りが鼻をくすぐる。棚に残っているのは保存食ばかりだけど、ユイは工夫をこらしておいしいものを食べさせようとしてくれる。ぼくが普段、あまりに雑な食事をしているせいもあるだろう。凍ったままのパンをかじって夕飯を終わらせたときはかなり呆れられた。


「できたよ。冷めないうちにどうぞ」

 呼ばれて、ろうそくの炎がゆれる食卓につく。ユイが皿をぼくのまえに置く。

 温室から採ってきたサラダ菜に、刻んで香ばしく焼いた塩漬け肉を散らしたもの。

 そして湯気のたつスープ皿。澄んだ琥珀こはく色の海に、煮込まれたパンがふた切れ、島をつくっている。雪ではなく、少量のチーズの化粧をして。


 ユイはぼくの向かい側に座ると、姿勢を整えてボディの動力を切った。電気の節約のためだ。発声は別の回路なので会話に支障はない。ぼくも、まばたきさえしない彼女と話すのにはすっかり慣れた。彼女の声は表情がなくともあたたかく聞こえる。

「味、どうかな」

 さじでパンをひとかけらすくいとる。チーズがひかえめに、みょんと伸びた。スープの染みたパンは柔らかく、熱く、滋味じみゆたかに舌をうるおした。

「おいしいよ」

「よかった。コンソメキューブ、それでおしまいなんだ」

「いよいよ最後の晩餐ばんさんをいつにするか決めないとな」

「晴れた日がいいね。わたしも昼間いっぱいお日様浴びて、たくさん動けるから」

「次に晴れたら、おわりにしようか」

「うん。今日みたいな日だったら最高だな。月がこんなにあかるい」

「月がなかったら、星がきっときれいだよ」

「そうだね。降りそそぐような星空もすてき」


 ぼくはサラダを噛みながら、ユイのうつくしい顔がささやかな炎のゆらぎを映すのを見る。電力で動く彼女に、塩気のきいた肉をそえると野菜が栄養補給の手段でなくごちそうになることを最初に教えたのは誰なのだろう。

 この塔に現れたとき、ユイはすでにひとりで、かつての所有者の記憶を失っていた。すくなくとも、そう主張していた。


「きみまで死ぬことは、ないと思うんだけどな」

「メンテナンスができない機械類の寿命なんて儚いものだよ」

「それにしたってぼくよりは長いだろ」

「わたしをひとりで置いていくの?」

「どこかに都市が残ってるかもしれない」

「ないかもしれない。それに、この外気温じゃわたしは活動できない」


 心中めいた計画をたてたのは、三ヶ月ほど前、まだ出会って間もないころだ。

 ひとりで死ぬのが怖かった。誰かと、手をとりあって眠りにつきたかった。

 彼女は自分の殺しかたを知っていた。説明のほとんどはぼくに理解できないものだったけれど、機械も死ぬことができるのだと、なぜか心強く感じた。

 おわりにすると決めてしまえば、日々をおだやかに過ごすのはそう難しくなかった。

 雪や曇りの日、ユイは電力を節約するためじっとしている。お喋りな人形になって、ぼくをたっぷり笑わせてくれる。

 晴れの日、ユイは昼間のあいだ屋上に設置された太陽光パネルから電力を引いてたくわえておく。日が傾けば料理をしたり、塔にある機械類の整備をしたり、ぼくとボードゲームをしたりする。


「わたしは、ひとと共に生きるためにつくられたんだよ。ひとりじゃ存在しつづけられない」


 ユイがぼくに優しいのは、彼女が接触しうる最後の人間だからだ。

 彼女が、ひとに優しくあるようにつくられたからだ。


 ぼくはたまに、ユイをこわしてしまいたい衝動にかられた。それがぼくをユイの特別な人間にする手段のように思えて。そうすることではじめて、彼女がぼくをほんとうに見てくれると錯覚しそうになる。

「きみを必要としているひとがどこかにいるって、考えないの?」

「考えるよ。ほら、ここにいる」

 食事が終わっていないのに、ユイはボディの電源を入れた。

 手をぼくにむかって伸ばす。ひとの手によく似た、繊細な指先がぼくの頬をなでていく。

「わたしに心がないことはわたしも知ってる。でもね、わたしがきみを選んだのはほんとうのことなんだよ。記憶領域に焼きつけるさいごの人間はきみ。これは決めたこと」

「ごめん」

「いいよ。愛してる、なんて言えないけど、わたしはきみを好もしく思ってる」

「ぼくは……」


 これは愛だろうか。ぼくは彼女に恋をしたことがあっただろうか。

 孤独をなぐさめられた。愛らしい声で話をしてくれた。触れたいと思ったこともある。でも、存在をたしかめあうように手を握ることのほかは、なにもしてこなかった。

 ぼくは人間の女性にたいしても、適切な反応というものをできずに生きてきた。だからこんな辺境でうっかり生き延びてしまった。


 彼女はきっと相手がだれであれうまくやったはずだ。

 ユイの機械仕掛けの瞳に刻まれる最後の人間になれたのは、ぼくがここにいたからだ。それ以上でも、以下でもない。ただの幸運。


「なんだっていいよ。大丈夫。さいごまで、わたしたちはいっしょなんだから」


 ユイは笑顔をつくる。彼女が人間らしいふるまいをすればするほど、ぼくはその底のからっぽな場所を想像してしまう。ぼくらが真にふれあうことはないんじゃないかと疑ってしまう。


 ぼくのけがらわしさをあばいてほしい。うたぐり深さをなじってほしい。だけどそれはきっとひとにしかできないことで、ぼくは、永遠にその機会を失っているのだった。

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