【冬008】君の名前は布団に消える【性描写あり】




 六華りっかはセックスの最中に僕の名前を呼ばない。

 長い睫毛の下へ瞳を封じて、暗闇の中で叫ぶだけ。


「あっ……」

「待って」

「ダメ、無理」


 じわり、浸潤した激しい熱が、身体の震えに攪拌されていっそう燃え盛る。僕はゆっくり起き上がって、生まれたての小鹿のようになった六華からを引き抜く。汗だくの六華は僕を見上げて、「同時だったじゃん」と笑った。


「タイミング合わせるの上手くなったね」

「そりゃどうも……」


 何年もを続けていれば、そりゃ上手くなりますとも。どこか拗ねたような心持ちを隅に追いやって、布団を持ち上げて外へ出ようとしたら、六華の手が僕を引き留めた。


「なんだよ」

「余韻を楽しむって発想はあんたにはないの」

「さんざん楽しんだだろ……。今日だけで三度目だぞ、ヤるの」

「ロマンの欠片もないよね、あんたって。そんなんだから彼女ができないんだっていい加減気づいたら?」


 余計なお世話だ。握られた手首を見下ろしながら、あふれかけた苛立ちを僕は飲み込んだ。

 ん、と六華が腕を広げる。仕方なく再びベッドに横たわって、ふくよかな彼女の身体に肌を這わせる。ずっと布団をかぶっていたというのに、わずか数分で六華の身体は雪女みたいに冷え切っている。覆いかぶさる僕の背中へ腕を回して、「寒い」と六華はのたまう。


「しばらくそうやってて」

「いつまで?」

「とりあえず、いつまでも」

「親、帰ってくるんだろ」

「まだしばらく先」


 溺れるような六華の言葉に、また少し、きゅっと音を立てて胸の細胞が縮む。悟られないように僕は力を込めて、小さな六華の身体を抱き寄せた。ひとりでにまろび出た言葉が、じわり、布団に染みて沈んだ。


「……六華」


 六華は返事をしない。

 ただ黙って、赤ん坊のように僕の身体へしがみついている。

 鋭い音を立てて時計の針が正午を跨ぐ。古びた木造アパートの一室にはしんしんと冷気が降っている。断熱材のない老朽アパートのように、六華の身体は外気の影響を受けやすい。夏には冷気を求め、冬には温もりを求めて、僕の身体を抱く。僕もまた、そんな彼女の要求にこたえて、下手くそに身体を重ねる。

 僕らは恋人同士じゃない。

 六華が僕を求めるから、セックスをする。それだけの関係。

 学校に行けば僕らは他人と化す。交友関係の豊かな六華は、地味の権化のような僕とは文字通り別世界を生きている。六華が僕を名前で呼ばないのも、はたから見れば当たり前のことだ。


「なぁ」


 耳に息を吹き込んだら、六華は真っ赤になって僕を睨んだ。


「耳は弱いって言ってんじゃん」

「いい加減、こういうことはやめた方がいいんじゃないの。彼氏だっているんだろ」

「いいの。あいつはこういうの下手だし」

「こういうのって?」

「言わせないでよ」


 理不尽な六華の言葉に僕は黙って屈服する。僕らの間では基本的に六華のほうが立場は上で、いつだって僕は彼女の要求を拒みきれない。求められれば家へもカラオケへもホテルへも赴くし、どんなプレイだってしてのける。そのわりには性戯の手腕を褒められたことは一度もなくて、だからこそ、彼女が僕の何に満足しているのか理解できなかった。


「僕が彼氏ならキレ散らかすけどな。彼女がセフレと乱れまくってたら」


 溜め息交じりにぼやいたら、「なんで?」と六華が僕を見上げた。


「なんでって……。好きな人が他のやつに心を許してたら誰だって嫌でしょ」

「許してるのは身体だけじゃない?」

「一緒だろ。身体を許すのは心を許すより簡単じゃないよ。普通は順序が逆なんだ」


 回す腕に力を込めながら、そうかな、と彼女はつぶやく。

 僕は黙って六華に身体を引き寄せられる。

 冷えた彼女の肌に熱が吸われてゆく。身体中の体温を剥ぎ取られたら、次に吸われるのは魂だろうか。そっと息をひそめて、鼓動の場所を確かめる。彼女のために使い果たしてボロボロになった魂は、まだ肋骨の奥で、弱々しく呼気を吐き出している。

 本当は、六華の彼氏になんてちっとも同情しない。そもそも彼氏がどこの馬の骨かも知らない。まだ見ぬ六華の恋人を想像するたび、胸に走るのは一抹の羨望だけだ。──きっと彼は六華に名前を呼ばれながら、心豊かにセックスに及ぶのだろう。


「六華」


 布団に埋もれながら名前を呼んだ。


「どうして六華は、僕のことを──」


 ──名前で呼んでくれないんだ。


「…………」


 無言のまま、六華は僕の身体を指でなぞる。

 なんでもない。誰にともなくつぶやいて、僕は目を閉じる。口走った言葉の余韻は雪みたいな白い布団に片っ端から吸われて、欠片さえも残さずに虚空へ消えてゆく。

 名前を呼ばれないと、自分が何者なのか分からなくなる。

 名前のないモブキャラのように自分を錯覚する。

 たぶん、六華にとっての僕もまた、なりゆきで身体を許したモブキャラの一員に過ぎなくて、だからいちいち名前を呼ぶ値打ちもないのだ。

 ならばどうして、僕はセックスのたびに六華の名前を呼んでしまうのだろうか。

 分からない。気づきたくもない。気づいてしまえば傷つくのが分かっているから、ただ、目の前の豊満な肢体にしがみついて、溺れるように六華の名前を叫ぶ。一面の雪原のような僕の心象世界の中で、たったひとり色のついて見える彼女を、嗄れ果てた声で果てしなく求め続ける。

 六華。

 どうか、僕を見て。

 たとえ名もなきモブキャラなのだとしても、せめて抱き合っている間くらい、目の前の僕を見つめてよ。その透き通った大きな瞳で──。


「……寒い」


 うごめいた六華が腕に力を込めて、起こしかけの僕の上体を押し潰した。

 肌と肌が触れる。顔が見えなくなる。背中の上で六華は両手を結んで、離すまいとばかりに僕を縛り付ける。


「まだヤり足りないの」

「違う」

「違うってんなら……」

「もうちょっと、こうしてたいだけ」


 そっか、と僕はつぶやく。

 底冷えのする冬の休日が更けてゆく。埋もれた胸の底で六華が息をしている。何を考えているのか分からないセフレの身体を黙って抱き寄せながら、もつれた感情の行き場を求めて僕も目を閉じる。


 ……この呼び声が何度、真っ白な布団に吸われ消えても。

 今はまだ、それでもいい。

 こんな自堕落な日々が続いて、六華が名前のない僕を求めてくれるのなら。



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