【冬006】雪原に佇む

「父ちゃん寒いね」


「ああ。寒いな」


「なあ父ちゃん。母ちゃんは何処に行ってしまったんだい」


「ぽん太。母ちゃんはなぁ。遠くに美味しい物を探しに行っているんだよ」


「ふーん」


 枯れ木に隠れた洞穴に、二匹の獣の影が並んでいる。

 雪に閉ざされた野山を眺める為に、暖かい穴の奥から出て来たのだ。


「何もいないね」


「ああ、何もいないな」


「なあ、父ちゃん。こんな時はネズミや虫たちは何処に居るんだい」


「さあな。雪の下にでも隠れているんじゃないか」


「ふーん」


 二匹はしばらく雪原を眺め、穴の中へと戻って行った。




「ぽん太。この雪が溶けて、色んな虫や動物が出てきたら、お前は独りで狩りをするんだぞ」


「ああ、大丈夫だよ父ちゃん。こうやって獲るんだろ」


 体がそれ程大きくない若い狸が、石ころに飛びつき狩りを真似る。

 そうかと思えば、それを見守る父ちゃんに指先を向けグルグルと回し始めた。


「どう? 父ちゃん目が回った?」


 秋にトンボの獲り方を教えた事を思い出し、父ちゃんは切れ長の目を更に細めて微笑んでいた。


「なあ父ちゃん。母ちゃんはこんなに雪が降っていたら、帰って来られないんじゃないのかい」


「そうだな。でも母ちゃんは、お前の為にいっぱい食べ物を獲ってくれているはずだよ」


「そうなのかい! 何だか嬉しいな。でも、母ちゃんはいつ帰ってくるんだい?」


「そうだな。今は雪で帰って来られないから。春になって、お前が自分で狩りを始めた頃に帰って来るかもしれないね」


「そっかー。早く母ちゃんに会ってみたいなぁ。一体どんな感じなんだい? 父ちゃんに似ているのかい。それとも僕に似ているのかい?」


「そうだなぁ、どっちだろうな。しばらく会って無いから、ボヤっとしか思い出せないな」


「何だい父ちゃん。本当は母ちゃんに捨てられたんじゃないのかい? それとも僕の事が嫌いで、どっかに行っちまったとかさあ」


「そんな訳ないだろう。母ちゃんはお前の事が大好きだ。さあ、今日はもう遅いから寝なさい」


「はーい。父ちゃんお休みー」




 雪解け水が集まり小川になる頃。

 月明かりに照らされた木々の間を、二匹の獣が駆け抜けて行く。

 体つきが大きくなった若い狸が飛び上がり、狙っていた獲物を捕らえた。


「見てよ父ちゃん! 上手いもんだろう」


「ああ、狩りが上手になったな。もう独りでもやっていけるな」


「な、なに言ってるんだい。俺は父ちゃんと一緒に母ちゃんが帰ってくるまで……」


 そこまで言いかけた若い狸が、何かに気が付いて振り向いた。

 小高い丘の上に一匹の狸の姿が見えたのだ。

 青い月明かりの下に佇むその姿は、若い狸の心を捕らえて離さなかった。


「と、父ちゃん。何だろう。何だか胸がドキドキするよ。何だろうこれ?」


「そうなのかい。だったら会いに行ったらどうだい」


「良いのかい?」


「ああ、行っておいで。捕まえた得物を渡してご覧よ」


「う、うん。い、行ってみるよ」


「ぽん太。もし、あの娘と一緒に行きたくなったら。父ちゃんの事は気にせずに、そのまま行くんだぞ」


「父ちゃん……」


「早く行け!」


 ぽん太は小高い丘の方へと嬉しそうに駆けて行った。

 娘の狸と仲良く過ごしているうちに、父ちゃんの事は忘れてしまい。そのまま娘と共に野山を歩き続け、幾日か過ごすうちに帰り道も分からなくなってしまった。




 夏の気配が漂う森に、幾日も雨が降り続いている。

 新緑の木々に隠れている洞窟から、切れ長の目をした獣が、雨に濡れそぼつ森の木々を眺めていた。

 その獣が洞窟に近づいて来る者の気配に気が付き、おもむろに四肢を伸ばす。

 しばらくすると、ずぶ濡れの狸が姿を現し、獣の前で頭を垂れた。

その口には小さな命が咥えられていた。


「父ちゃん……」


「……ぽん太。どうした」


「この子が育たねえんだ。兄妹の中で一番体が小さくて、乳にありつけねえんだ」


「……」


「なあ、父ちゃん。頼むよ。このままだとこの子は死んじまう。父ちゃん助けてくれよ」


「全く、お前って子は……。分かったよ。置いて行きな」


「良いのかい!」


「ああ。でも、もう会いに来てはいけないよ。この子が不幸になるだけだからね」


「分かった。約束は守るよ。父ちゃん……ありがとう」


 父ちゃんが愛おしそうにぽん太の頬を舐めると、ぽん太も嬉しそうに舐め返し、父ちゃんの体に頭を強く擦りつけた。


「さあ、お行き」


 ぽん太は何度も何度も振り返りながら去っていった。

 父ちゃんは小さな命を咥えると、直ぐに洞窟の奥へと連れて行き、子狸の全身を舐め始めた。


「さあ、もっと鳴いて声を聞かせておくれ。もっとお前の匂いを嗅がせておくれ」


 目を瞑ったままキュンキュンと声を上げていた子狸は、ふと乳の香りに引き寄せられて、獣の腹の方へと潜り込んで行く。


「さあ、たーんとお飲み。慌てなくて良いよ。お前の乳を横取りする奴はここには居ないからね」


 乳を与え始めためすの狐は、切れ長の目を更に細めながら、子狸を愛おしそうに腹に抱え、震える小さな命を温め続けた。




「父ちゃん寒いね」


「ああ。寒いな」


「ねえ父ちゃん。母ちゃんは何処に行ってしまったの」


「ぽん美。母ちゃんはなぁ。遠くに美味しい物を探しに行っているんだよ」


「ふーん」


 枯れ木に隠れた洞穴に、二匹の獣の影が並んでいる。

 雪に閉ざされた野山を眺める為に、暖かい穴の奥から出て来たのだ。

 二匹の前には何処までも続く雪の平原が広がっていた……。




 狸を育てる狐の話は、地元の猟師の間で長く語り継がれて来た。

 ただ、その狐を見かけたという話は、百年以上にも渡り続いていたことから、その狐はきっと神獣しんじゅう天狐てんこであろうと云われ。近隣の集落の者達が、洞穴の住処の傍にほこらを立て、この慈愛に満ちた天狐の石像をまつったと伝えられている。

北アルプスにある稲荷神社の参道脇には、慈母天狐じぼてんこと呼ばれる狐の像があり。今もなお美しい雪原を眺めながら、苔むした姿でひっそりと佇んでいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る