【冬041】初雪の夜【性描写あり】

 突然の寒暖差に寒くてエアコンをつけた朝のこと。

 リモコンのボタンを何度押しても冷たい風しか出ない。少し点けっぱなしにしておけば温まるだろうと思ったけど、部屋は冷えるばかり。

 連休で管理会社と連絡が取れず、目に留まった修理屋に電話をした。すぐに行く、の返事に待つこと三十分。歯を鳴らして出迎えた作業員――それが彼だった。


 彼は大柄で、狭いワンルームの玄関を覆ってしまうほどだった。上下灰色の作業着で工具箱を手にした彼は玄関で事務的な会話を終えたあと、こう言った。

「作業は俺ひとりなので、心配なら玄関を開けといてください」

「え?」

「少しの間、寒いですけどすみません」

 じゃぁ上がらせてもらいます。彼は宣言通り遠慮なく上がり込み、ぽかんとする私をすり抜けて行った。


 私は田舎育ちで、男性を――例え業者の人でも――部屋に上げることへ全く危機感を持っていなかったので、言葉の意味が分からずしばし呆然とした。そして彼の大きな背中を見つめ、ようやく「あっ」と我に返った。

 そうか。あの人は男の人で、私は女だからか。

 そうして丸々と着込んだくたびれてる部屋着姿に、今さらながら恥ずかしさが込み上げた。眼鏡のレンズは今朝から拭ってもいない。


 私は少し悩んで、でも言われた通りに玄関のドアを少しだけ開けた。ほんの数センチの隙間から冷たい外気が入り込んで頬を撫でたけれど、不思議と寒いとは思わなかったのを覚えている。


 そうこうしている間にエアコンは十分ほどで直った。少し黴臭い風にほっとしていると、彼は「お邪魔しました」と立ち上がった。

「今度からは、管理会社を通した方がいい」

 えと、支払いは? という間もなく、彼はドアの隙間を大きく広げて出て行った。

 ひゅると風が舞って、塵のような白が部屋に吹き込んだ。その遠ざかる背中に何故か胸が冷えて、私はぶるりと震えた。彼は名刺すら置いていかなかった。


 

 それからあっけなく二年が過ぎた。

 私は仕事疲れの毎日に辟易していた。目についた居酒屋の外まで響く賑いに、ビール飲みたさで吸い込まれるようにのれんをくぐった日のことだ。


 中に入るとカウンターの空席はひとつだけで、「空いていますか」と声を掛けたと思う。たぶん。だって私はすでに頭に血が上っていた。見覚えのある大きな背中、灰色の作業着ズボン――もしかしてもしかして、と顔をのぞき込んだ。

 彼だった。

 うちのエアコンを直してくれたときと変わらない、無口そうな顔が私に向いた瞬間、私はまるで別の生き物になった。

 感覚がなかった頬に血が巡り、えり足から汗がふきだした。

 爪の先、髪の毛の一本一本にまで命が宿ったように感じて、私の背筋はしゃんと伸びた。有り体に言えば、恋をした。一目惚れならぬ二目惚れだ。

 

 名前を聞かれ、私は彼――雪人ゆきとさんに嘘をついた。

 ろくに片付けてもいない部屋と着古した部屋着の女を思い出してほしくなった。今、彼の前だけでは上等な女でいたかった。接待のための一張羅のスーツがなんと心強かったか。

 だから私は咄嗟に『葉子』と名乗った。ドリンクのメニューに似たような名前を見たからだった。


 本来なら素直に名乗り、以前の親切を感謝すべきだ。

 あのあと、請求書は管理会社に送られて私の支払いは一銭もなかった。悪徳な業者に当たればそんな面倒なことはしないし、不必要な修理で高額請求することもあるらしいとも聞いたのだ。心から感謝していた。


 けれど私は熱に浮かされて正しさとは何か、分からなくなっていた。少しずつ、私を見る彼の瞳が深く熱くなっていくのを味わうのに夢中になっていた。

 こちら側に張り出した彼の大きな肩と、私の肩が触れてほしいとばかり思っていた。はしごした二軒目では小さな座卓の向かい側で、猪口を持ち上げる手が私に触れればいいのに、と。



「昨日はその……悪かった葉子さん」

 深浅に残滓の残る、白々と眩しい朝。弱り切った声に、遂に私は自分の罪を自覚した。

 彼の眉は下がり、乾燥した空調に汗を滲ませている。対する私は、もみくちゃの髪で化粧がはがれてひどい有様で、すでに『葉子』などではなく、ただのあばずれのなれの果てだった。

 彼は「責任をとる」と頭を下げてくれた。それを呆然と眺め、一瞬でも歓喜した私は欲深い。でもその責任は昨夜の葉子に向けた言葉であって、私にではないことは明白だった。

 だから鍍金メッキのはがれた私は懸命に微笑んで「忘れましょう」と言うほかなかった。私は彼が求めた葉子ではないのだから。


 それでも翌週末は恋に理性をとばして、また同じ店に足を向けてしまった。だって会いたくてたまらなかった。会えば絶望と恍惚の責め苦に、一晩中苦しむことになると分かっていても。

「葉子、ようこ……」

 私の肩で腹で、背で彼はそう囁いた。ビールもそこそこに私たちはお互いを――いや、彼は葉子を求めた。

 雪人さん! そう応えられたらどんなにいいか。けれど私は返事を堪え、彼はその度に苛立たしく私を激しく穿った。これは罰なのだ、嘘をついた罰。

「返事を、してくれ……葉子」

 いやだ『葉子』にあなたをやるものか! 

 彼の腰が私の覚悟を打つ。 

 うああぁ、と私は喚く。

 彼は葉子を呼ぶ――。 


 目が覚めると彼はもうどこにもいなかった。シーツは冷え切っていて、私はひとり、雪のちらつく街を帰った。

 次の週末もその次もひと月経っても、彼は私の前に現われなかった。



「あぁ、やっぱり遅くなっちゃった」

 あと二十分でラストオーダーか、と店の前で立ち止まった。眼鏡をずり上げ、はぁ、と白く息を吐いた。

 仕事が遅くなり、着替えてきたら遅くなった。黒のデニムパンツにパーカー。もう半年はこの格好で店に通っている。


 『葉子』は捨てられた。

 そう観念した日から、私も葉子を捨てた。だけど「私」は彼を捨てられなかった。

 新しい恋が始まるまでしがみついていよう、ついでに美味しいビールを飲めばいい。

 だし巻きはまだ残ってるかな。私は店の玄関を開けた。


 カウンターは壁際のひとつだけ埋まっていた。

 大きな背中。灰色じゃない作業着、見たことのある上着。

 

 頭の中がぐにゃりと回って、私の足はふらついた。夢だろうか、前に歩く。あぁもしかして。

「隣、空いてますか」

 彼が、ゆっくり振り向いた。

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