【夏017】楽しい夏休み
コロナウィルスの存在なんて知らないとでも言うかのように、弊社はリモートワークのない世界だった。最悪だ。それだけの問題じゃない。労働時間も、上司も、仕事の内容も、とにかく最悪な会社だと思っていた。何が最悪って、そんな状況なのにやめることもできず、ただただ最悪な会社の寿命を伸ばすために頑張ってる自分がとにかく最悪だ。同僚の数はどんどん減った。減れば減るほど、仕事と責任は増えた。この社会情勢の中で業績を維持してるだけでも奇跡な会社、給料が減ってないだけマシだと思う。感染症に患って死ぬのと、電車に飛び込むのとどっちがマシかを考えて、感染症なら自分が自宅で一人苦しむだけだけど、電車に飛び込むと迷惑の掛かり方が段違いだよな、なんて思いながら家に帰り着いた。正直、もう限界だったんだと思う。家に帰り着いて、客先に行く訳でもないのに強要されて着ているスーツを脱ぎ捨てて、トイレで吐いた。翌日、またスーツを着て家を出ることがどうしてもできなかった。ずっとうるさく音を出して身体を震わせているスマートフォンの電源を切ってベッドと壁の隙間に落っことした。脱ぎ散らかしたままのスーツは、丸めてゴミ箱に突っ込んだ。あと必要なものはなんだ、と考える。最低を終わらせるために、最高な夏休みに必要な、バカみたいな──そこまで考えて、ひどく眠いことを思い出した。考えるのも面倒になって、二度寝した。
これが、俺の自主的夏休みの始まりだった。
少し眠って、起きたらもうぶっちぎりで昼を過ぎて夕方と言っても良いくらいだった。こんなに寝たのはいつぶりだったか、寝すぎて体も頭も重い。起き上がったらこれも久しぶりに空腹感を覚えていた。最近はずっと食欲もなかったし何か口にしても夜には吐いていたから、こんなに気持ちよく腹が減ったと思えるのは本当にいつぶりだろうか。残念ながら冷蔵庫はほとんど空っぽでロクなものがない。何か買いに行かないとと思ってタンスの中を漁る。スーツ以外の服を着るのもいつぶりだったか、着ることのできる服が残ってると良いけど、と思いながら引っ張り出したTシャツとジーンズは、着ることはできたけどタンスのにおいがひどくて、洗濯乾燥機に突っ込んでスイッチを押した。洗濯が終わるまでは出かけられない。最悪だ、いや、大丈夫。こんなことは最悪のうちに入らない。だって終わることがわかってるんだから。待っている間やることは何もなくて、本棚にはシリーズ物の、最近はもう最新巻を買ってなくて、途中になって埃を被っている小説や漫画や、それから何冊かのビジネス書や啓蒙書が置かれている。その背表紙を見て気分が悪くなって、俺はそのわかったようなわからないようなタイトルの本を掴んでスーツを投げ捨てたところに放った。少なくとも今の俺にとっては最悪な思い出と共にある最悪な本でしかない。他の価値のわかる誰かのところに行けたら良かったのにな、なんて思って、また吐き気が込み上げてきて目を逸らして忘れることにする。時間を潰せるものが何もなくて、俺は結局またベッドに寝転んで、寝た。寝る以外の時間の過ごし方がわからない。
次に目を覚ましたら、もうすっかり夜だった。起き出してシャワーを浴びる。洗濯乾燥機から出したばかりの服は熱くなっていた。夏に着るには不向きな気もしたけど、タンスのにおいはなくなっていたからまあ良いかと思って着た。財布をポケットに。マスクをする。家を出る。真夏の夜。日が沈んでもまだ蒸し暑い。空気は湿気を含んで重くて淀んで生臭い。冷えすぎたコンビニに入って、困ったことに食べたいものが見付からなくて、そうだ夏休みだし夏休みらしくアイスを食べようと思い付いて、それで買ったのはカップのバニラアイスだった。持ち上げれば、指先に張り付くような冷たさだった。一番小さなビニール袋に一つ、ひんやりと冷たいアイスを入れてもらった。それから、小さな木のスプーンを一つ。
帰り道。空気は相変わらず湿気ていて重苦しいものだったけれど、アイスを取り上げた指先がまだひんやりとしている気がしていた。
その冷たい指先が、重い空気を搔き分ける。そこから、新鮮な空気が流れ込んできて、それで俺は久し振りに呼吸をした気がした。
俺はアイスを持っている。
笑いたくなる気持ちで、家までの道を歩いて帰った。
家に入って、マスクを剥ぎ取って、アイスを食べた。
夏場の空気で柔らかくなったアイスは、けれどまだひんやりと冷たくて、口に入れれば冷たさと甘さを残して溶け落ちる。
その冷たさが体の中に入り込んで、そんな心地良さを感じるのは久し振りのことだった。
夢中で食べた。冷たさも、甘さも、まるで生まれて初めてのように感じられた。
食べ終えて、食べ終えてしまったことが信じられずに、床に寝転んだ。アイスの冷たさは、まだ口の中に、喉に、体の奥に感じられた。
笑った。無性に心地良く、楽しく、気持ち良く、楽しかった。
だから笑った。
「夏休みだ」
そう、夏休みだった。
「自由だ。夏休みだ」
笑いは止まらなかった。
だって、夏休みは
始まったばかり
だった
から
。
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