【夏016】追憶電車(夏)
電車に揺られている。
しばらくアイロンもかけていないよれよれのスーツで、
今日も今日とて、と隆哉はため息をつく。今日も今日とて、
どうしてこんな風になってしまったのか、と嘆いたって意味などない。
蒸し暑いこんな日は、どうしても息が苦しくなる。
若い頃はもっと楽しかった。二十歳になる前までだ。あの頃、隆哉はバンドを組んでいた。来る日も来る日もベースを弾いて、ライブをして、ライブ終わりには打ち上げをし、とにかく何でも楽しかった。
――――恭介。
恭介が死んでから、何もかも変わってしまった。
新田恭介はバンド仲間で、ボーカルで、リーダーみたいなやつだった。だけどある時突然病気でぽっくり逝ってしまって、隆哉たちと共に成人を迎えることはなかった。それからバンドも空中分解して、面白いことなんてなくなった。
あいつが生きていれば、何もかもが違ったはずだ。恐らく、バンド仲間は全員そう思っているだろう。
「お客さん」と声が聞こえ、隆哉は目を開ける。目を開けて初めて、自分が目を閉じていたことに気付いた。眠っていたのだろうか。
「お客さん、その切符……ここで降りるんじゃないの?」と駅員だか車掌だかわからないが、とにかくそれらしい制服を着た男に指摘される。
「えっ……? あ、はい。降ります」
隆哉は慌てて立ち上がり、鞄を引っ掴んで電車を降りた。
「つうかここ、どこ……」
降りたはいいものの、不思議なことに駅らしいものは何もない。唐突に街だ。そこにあってしかるべき駅のホームもなければ、どこかに改札があるわけでもない。ついでに振り返っても電車の影すらない。
狐につままれた気持ちで歩く。
「おい、聞いてんのか?」
立ち止まる。強めに肩を叩かれ、隆哉は目を見開いた。
「何ぼうっとしてんだよ」
そこには、恭介がいた。
ああ夢を見ているんだな、と隆哉は思う。随分と懐かしい夢だ。
この街並みには覚えがある。十九の夏、一度だけやらせてもらった
「恭介……」
「あ? 何だよ」
「……お前さ、俺たちになんか言うことないの?」
後から知った話だが、恭介はすでにこの頃には自身の病状を理解していたらしい。有体に言えば、余命宣告に近いものを受けていたのだと聞いた。
どうして俺たちに言わなかったんだ、とずっとそう文句を言ってやりたかった。
だが、恭介は涼しい顔をして「ないよ」とだけ答えた。それが妙に腹立たしく思えて、隆哉は立ち止まる。
「もうやめようぜ、バンド」
遅れて立ち止まった恭介が、驚愕の表情をして隆哉の顔色を伺う。「なんで?」と眉をひそめた。
隆哉たちは、恭介の死後もしばらくはバンドを続けようとした。惰性だったと思う。そんな風に続けたバンドはつまらなくてつまらなくて、恐らく隆哉たちは音楽というものが嫌いになった。
だからたぶん、みんな同じ気持ちのはずだ。
せめて恭介がいるうちにバンドなんてやめればよかった、と。
恭介が顰め面のまま目を伏せ、一度だけ瞬きをした。
「それなら、お前はやめろよ。オレたちは続ける。てか、オレは続ける。たとえ一人になっても」
なんでだよ、治療に専念しろよ、と隆哉は思う。口には出さない。出せなかった。
もう恭介は前を向き、歩くのを再開してしまっていた。少しずつ、距離が広がっていく。何でだよ、と今度は声に出ていたと思う。
「生きることと同じだから」と恭介は言った。決して歩みを止めることなく。
隆哉は仕方なく、早足で恭介を追いかける。
「オレにとっては、生きることと同じだから」
「何言ってっかわかんねえよ」
「やめられねえってだけだよ。お前はさ、何か理由さえあれば生きることやめるの?」
「……そういうやつもいるだろ」
恭介が立ち止まる。「オレは、そう思わないよ」と言った。真っ直ぐに隆哉を見て、「オレは、そう思わない」と繰り返す。
「お前はなんでバンドやめたいの?」
「……嫌になるから」
「何が」
「音楽やってると、忘れたいことを思い出して嫌になるから」
「お前はロックンロールを何だと思ってるんだよ」
呆れた顔で、恭介は隆哉を睨む。それから両手を広げて、「ロックっていうのはさ、そもそも、“オレは絶対にこの瞬間を忘れねえ”っていう叫びだろ。そういう歌ばっか歌ってきたじゃねえか」と言った。
夏の夜は空気が重い。質量を伴い、稀に人の首を絞める。息が、止まるような気がした。
何だか妙に全て腑に落ちた気がしたのだ。きっと────恭介が死んだ後あんなに音楽がつまらなくなったのは、人生がつまらなくなったのは、恭介がいなくなったからじゃない。恭介がいたということを、俺たちが必死になって忘れようとしたからだった。
俺たちは恭介がいなくなった空白を、どうにか音楽で埋めようとした。だけど俺たちの愛した音楽はそもそもそういうものではなかったのだ。それはいつでも、喪失を喪失のまま残すためにあった。失ったという事実を忘れないためにあった。そのことをすっかり忘れてしまっていた。
「恭介」
「ん?」
「ライブ、楽しかったよな」
ああ、と恭介は目を細める。「楽しかったなぁ」と言って、ゆっくり隆哉に背を向けた。
歩いていく。遠ざかっていく。
隆哉はその姿を、ただじっと目に焼き付けた。
一際大きく体が揺れて、隆哉は目を覚ます。
次の駅のアナウンスが耳に入った。
電車が止まり、ドアが開く。ほとんど誰もいないホームに降り、隆哉は携帯電話を耳に当てた。
「……久しぶり。元気か? あのさ……もう一回。もう一回だけでいいから……バンド、やらねえ?」
どこかで蝉が鳴いている。
相手の返事を待ちながら、『なんか蝉ってすげえロックだな』と隆哉は考える。それから、大真面目な顔をして『わかってんじゃねえか、ロックなんだよ蝉は』なんて頷く恭介を想像し、隆哉はつい笑ってしまった。まったく、我ながら随分毒されたものだった。
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