【Ex-秋023】天高く妻肥ゆる秋




 根岸ねぎし家では記念日に外食をするのが習わしだ。

 理由は、夫婦そろって料理下手だから。

 だのに今日も夫の仁太じんたは、朝から布団に埋もれて動かない。

 蹴っ飛ばしたら仁太は悲鳴を上げた。「何すんだよ!」と言われたので、結希ゆうきは「何時だと思ってんの!」と言い返した。


「どっか食べに行こうねって話してたじゃん」

「許してよ、昨日はちっとも眠つけなかったんだ。タンメンにあるまじき大量のラー油のおかげで身体が火照って……」


 結希はラー油よろしく真っ赤になった。昨夜の夕食作りを担当したのは結希だった。担々麺タンタンメンと間違えて湯麺タンメンを激辛に仕立てて、夫の舌を焼き焦がした。


「仕方ないじゃん! 字面が似てるのが悪い!」

「前にも醤油と間違えてショウガを和風スパゲティに入れてたよな」

「うるさいな! 仁太くんだって卵の殻味の目玉焼き作ったくせに!」

「目玉焼きにジャムかけるバカ舌の結希には言われたくない!」

「目玉焼きにハラペーニョかけるメキシコ舌の仁太くんにも言われたくないし!」


 埒が明かない。料理の件になるといつもこうだ。溜め息をついたら、はずみでお腹が鳴った。仁太が変な顔でこちらを見たので、渾身の目力で睨み返した。

 こちとら朝から色々期待して何も食べてないんだぞ、ばーか。

 なんて、言わない。大人だから。


「……着替えてくるよ」


 にぶちんな仁太は後頭部を掻きながらクローゼットに消えていった。



 見上げれば、目の醒めるような秋空。

 白亜のひつじ雲がまばゆい。

 ひつじ雲、いわし雲、さば雲。秋空を漂う高積雲にはふるくから色んな名前があって、明確な区別はないらしい。昔の人はそんなにも食べ物に憧れたのだろうかと、仁太の隣を歩きながら歴史に思いを馳せる。

 何食べようか、と仁太が尋ねる。結希はお腹に手をやって、妊婦検診での指導を思い起こした。


「定食屋さんがいいな。一汁三菜バランスいいものが食べたい」

「ラー油浸しのタンメンとか?」


 回し蹴りを食らわせたら仁太は吹っ飛んだ。


「身体は大事にしなきゃだよ結希……。そんな激しい動きをしたらおなかの赤ちゃんがビックリするよ」

「旦那の配慮のなさに私がいまビックリしてるところですけど!」

「事実を述べただけなのに」


 しゅんと縮みながら、仁太はスマホで付近の店を調べ始める。親の顔が見てみたいものだと結希は嘆息する。もちろん見たことはあるし、なんなら二世帯住宅で同居中だ。義母の香耶かやは事あるごとに合鍵を使ったり壁を破ったりして我が家に突入しては、新婚の夫婦に口うるさく申し付ける。創作料理を作ったので試食しなさい、代わりに調理してやるので食材をよこしなさい、夜中にポテチなんか食べるんじゃありません没収です、云々。


「帰ったら壁の穴が塞がってるといいな」


 仁太が苦笑する。「無理でしょ」と結希は首を振った。


「お義母さんが塞いでくれたことなんて一度もないじゃん。二言目には『あなたたちのことを思って!』だし」

「そう言うなよ。母さんなりに色々と想ってくれてるんだからさ」

「……分かってるよ」


 息子夫婦が殺人的な料理で互いの生命力を削り合っていたら、結希だって義母のように介入したくもなる。だからこれは結希のわがままだ。──あんなにも義母に介入されたら、夫の愛情を独り占めできなくなりそう。なんとなく、それだけ。

 手頃な定食屋を見つけたのか、「お」と仁太の目が輝く。素敵な料理を前にしている仁太の表情は、結希と一緒にいるときのそれよりも少しばかり眩しい。それもまた結希には気に入らない。

 男心と秋の空、なんてことわざもある。男の愛情は秋の天候のように移ろいやすい、という意味らしい。

 さすがに倦怠期には早いと思いつつも、やっぱり不安は拭いきれない。妊娠の報告も結局、夫婦(+義母)喧嘩のなかでうやむやになってしまった。どうせなら大喜びしてほしかった──なんて、求め過ぎなのだろうか。


「ここ、どう」


 仁太が勇んでスマホをかざす。


「何のお店?」

「食べ放題のバイキング」

「妊婦を舐めてんの……?」

「まぁ聞けよ。ここ、自然食バイキングの店でさ。メニューもお腹に優しいものばかりらしい。うまく選べば定食屋より健康になるってよ」

「……そうだったんだ」


 頭ごなしに否定から入ったことを恥じ入りつつ、示された画面を覗き込んだ。星4もの評価をいただいている人気店のようだ。子連れにも優しい、赤ちゃんと一緒に来ました、などと母親からの肯定レビューが殺到している。


「ここなら赤ちゃんが生まれても通えそうじゃない?」


 仁太は鼻高々だ。

 なぜだか意地悪な心持ちが首をもたげて、結希はつんと目をそらした。


「……赤ちゃん、あんまり歓迎してくれてないのかと思ってた」


 ふてくされたら、不意に手を掴まれた。少し汗ばんだ仁太の手のひらは、結希の小さな手をすっぽり包んでしまう。「嬉しいよ」とためらいなく仁太は言い切る。


「心配だけどな。とんでもない料理センスの持ち主が生まれそうで……」

「半分は仁太くんのせいだし!」

「ともかく早く顔が見たい。そのためにも結希には健やかでいてもらわなきゃな。だいいち、妊娠とか関係なく、大切な人が弱っている姿をおれは見たくないよ」


 結希は顔を上げられなかった。

 不意打ちにやられて熱い手のひらをぎゅうと握り返しながら、この、とびきり料理が下手で、バカ舌で、嘘のつけない優しい人を、少しでも疑ってしまったことを後悔した。

 早く子供の顔を見たいのは結希も同じだ。たとえ壊滅的なバカ舌に育ったとしても、結希と、仁太と、生まれてくる子たちで、胸を張って誇れる円満家庭を築きたい。……仁太の愛情を独占できるのも、今のうち。


「ねぇ」

「うん?」

「今日、何の日だったか覚えてる?」

「結婚二周年だろ」


 何を今さら、とばかりに仁太が即答したので、全力で回し蹴りをしてやった。

 天高く馬肥ゆる秋。

 秋晴れの空は穏やかに澄んだまま、移ろわない。







👩「なんでドアから入ってくれないんだろ、お義母さん」

👨「フードファイターだった名残らしい」

👩「道場破りか何かと勘違いしてない……?」

👨「文字通り闘士ファイターだったんじゃないの。てか、道場破りって文字通り道場の壁を破るわけじゃないだろ」

👩「何でもいいけどよそでやってくれないかな……」



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