【Ex-秋029】底に残ったコーヒーの一滴が薄くて苦い

「あの、いつまでそれやってるの」

「ん? 面白いよピセダリ」

「そうじゃなくて。……まぁ、いいんだけど」

豊沢とよさわさんもやれば」

「やらない」

 カフェの店内で、わたしと丹波たんばくんは横に並んで座っていた。二人ともアイスコーヒーの真ん中のサイズを飲んでいて、それから、勉強道具を広げている。おやつ時でも閑散としているこの店は、長時間居座っても怒られなくていい。

 高校三年生の夏休み。わたしたちはこうして週に一、二回、一緒に受験勉強をしている。丹波くんは今、スマホゲームに夢中のようだけど。


 写真部だから、秋にある文化祭までは一応、三年生も在籍することになっていて、でも他の部員たちはみんな予備校へ通って忙しくしていた。

 一方でわたしと丹波くんは熱心に勉強している様子を見せないものだからよく心配されていて、でも行けるところへ行けばいいし、なんとかなると思っているからあんまり頑張るつもりはない。これでも、どこかしらに合格できるくらいの成績は取っているつもりだ。

 カフェらしい穏やかな店内BGMと、店員さんの明るい声と、カリカリ走るシャーペンの音。これくらいがちょうどいい。




 冷房が冷たく感じてきた。剥き出しの腕をさすってみるも、その手が冷えているから暖かくはない。やっぱりホットにすればよかったかもしれない。炎天下、自転車を漕いできたのだから仕方ないのだけれど。

 プラカップの表面はすでにびっしり結露していた。なんとなく触れた指先が、余計な冷気を感じとる。

 チラリと横目で丹波くんを見ると、バッチリ目が合ってしまった。

 ふっと鼻で笑われる。

 彼は夏でも長袖を着ていることが多くて、今日も微妙によれたグレーのシャツを羽織っていた。いつも暑そうだと呆れているけれど、今ばかりは羨ましい。

「貸さないよ?」

「そんなこと思ってないし」

 こういうのに目敏く気づく癖に、優しくはしてくれないんだ、丹波くんは。

 そもそも彼の雑な扱いに慣れすぎて、わたしは気遣われる自分を想像できない。優しくされたら雪でも降るんじゃないかとすら思う。

 でもちょっぴりだけ、彼女相手なら、優しくするのかな、とか。考えてしまう。

「あのさ」

「ん?」

 ふたたびスマホに目を向けた彼は、なにを思っているのだろう。くるくる画面をなぞる指は、怠惰で、ちっとも楽しそうには見えなかった。

「……や、なんでもない」

 聞いたってどうしようもないだろうに。ただ、彼のことを知りたいという気持ちと、決定的なを知ってしまいたくないという気持ちが、わたしの中で取っ組み合いをしているだけで。


 勉強をしていても、ぼんやりしていても、氷は少しずつ溶けていく。

 咥えたストローでかき混ぜると、コロコロ鈍い音を立てた。




「大学入ったらなんだけど」

 ふいに、丹波くんは切り出した。

 いつもよりほんの少しだけ高い声。真面目な話をするときの、丹波くんの癖。

 小さな緊張が伝染して広がって、「うん」と返すわたしの声は情けないくらいに上擦る。

「個展、やらない?」

「……えと、写真の、だよね」

「そ。アトリエ借りてさ、都度テーマも決めて、定期的に。……あ、二人だったら個展とは言わないか。グループ展? いや、二人展か」

 個展? え、なに。……二人で? 

 突然の提案に、頭が追いつかない。追いつかないけれど、わたしの口は勝手に彼を追いかける。

「うん、いいと思う」

「よかった」

 わたしの焦りに気づくことなく、丹波くんは、本当にほっとしたようにそう言った。

「豊沢さんの風景写真、好きなんだよね。うちの部は暗室ないからできなかったけど、フィルムでも撮ってほしい。よさが生きると思う。それからZINEを作るのもいいよね。……あーとにかくね、絶対もっと外に出したほうがいいよ」

 いつもは嘘にまみれた褒め言葉も、こればかりはどうにも嬉しくて、こそばゆい。だけど。

 ……ずるいな、とも思う。

 断れるわけないのだ。わたしが写真を好きなのは本心で、丹波くんがいてもいなくても写真部には入っていた。でも今は、彼にわたしが切り取った世界を見てほしいって、そういう気持ちがあるのも確かだから。

 わたしたちはきっと、別々の大学へ行くことになる。丹波くんがどこを受験するのかは知らないけれど、なんとなくそんな気がする。別に付き合っているわけでもないし、今みたいに過ごせなくなること自体はかまわない。

 それよりも、縋ろうとしているみたいで――そう思われることが嫌で避けていたこれからの話を、丹波くんがしてくれた。わたしの写真を、「好き」だと言ってくれた。その事実が、すごく。

「顔、変だよ?」

「うっ、うるさい!」

「嘘ウソ。綺麗だよ」

「……、うるさい」

 やっぱり彼は、嘘をつく。

 でも、そんなのは些細なことだ。

 まだこの人の背中を追いかけていてもいいのだと、隣にいてもいいのだと、確信できたことが、わたしの全部をさらっていった。


 なるべく音を立てないように、ゆっくり、ゆっくりとストローで吸い上げる。飲みかけのコーヒーがある限り、ここで勉強をしていられる。

 いつの間にか、わたしの身体は冷気を感じなくなっていた。

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