【秋026】月見バーガーの季節

「林原君! 今終わったよ、おめでとう」


 将棋会館前のブロック塀に座り込んでいると、頭上から声が降ってきた。顔を上げれば、見慣れた連盟職員が控えめな笑顔で俺を見下ろしている。

 三段リーグ最終日は東京での一斉対局。関西からの遠征にももう慣れていた。今期はもはや自力昇段の可能性はなく、自身の五敗を守った上で上位二人の連敗を待つのみだった。


「後藤君も今負けてね。キミと浅井君が十三勝で昇段確定だ。さあ、戻ろう、報道の人も待ってる」


 数秒遅れて意識が追いつき、力の入らない足で俺は立ち上がる。今更になって全身の震えが止まらなかった。


「……俺が、四段プロになれたんか。俺が……」


 今は前期だったか後期だったか。感覚が曖昧になった俺の頬を少し冷たい風が撫ぜる。

 ……そうだった、今は秋。

 月見バーガーの季節だ。



 ☗ ☖ ☗ ☖ ☗



「なんや、月見バーガーて三百六十円もするやんけ。普通のバーガーの三倍以上やがな」

「四人の全財産合わせて千二百円。ギリ人数分買えへんな」

「そこらの道場のオッチャン相手に賭け将棋で稼いでこよか」

「やめとけ、やめとけ。そんなんバレたら即退会やぞ」


 奨励会しょうれいかいに入って間もない頃。学業も青春も全てを後回しにした俺達には、将棋だけが生きる理由だった。週末は例会のない日も仲間の下宿に集まり、ひたすら実戦と研究に明け暮れていた。


「ほな、こうしよか。四人でトーナメントやって上位三人が月見。一人負けのやつはただのバーガーや」

「よっしゃ、負けへんで。俺は本番に強い男や」

「ウソつけ、こないだも昇級懸かった一局であんな負け方してからに」


 関西奨励会の同期四人。勝つ者だけが上に行く世界でも、同じ道を行く者同士、連帯感や友情が芽生えない訳ではない。


「タイトル獲ったら月見バーガーなんか食い放題や」

「アホ。マクドどころか毎日寿司でも鰻重でも食えるがな」

「ええよな。タイトル戦の食事なんか、アレ全部スポンサー持ちやて」

「はよプロになりたいわ」

「お前はまず2級に上がりぃ」


 結局、俺は月見バーガーにありつくことは出来なかった。四人の中ではまだ一番弱かったからだ。

 それでも、この頃はまだ自信と希望に溢れていた。俺達皆でプロになるのだと信じて疑わなかった。



 ☗ ☖ ☗



「角屋のヤツ、なんで退会やねん。まだまだこれからやろ」

「オヤジさんとの約束があるて言うとったやんけ。高校出るまでに初段に上がれへんかったら店継ぐて」

「勿体ないなあ。千人に一人の才能をみすみす捨てるんか」

「千人に一人やろうと一万人に一人やろうと、四段プロになれへんかったらただの人や」


 四人の同期が三人に減った例会の帰り道。この頃になると、地元で神童と騒がれた自分がこの世界では凡人に過ぎなかったことを、俺も仲間もはっきりと悟っていた。

 俺達が血の滲む努力を重ねる傍らで、本物の天才達は軽々とそれを追い抜いていく。それでも、俺達には将棋しかないのだ。


「月見バーガーでも食ってくか」

「あれ期間限定やぞ」

「ほな次はいつや」

「知らんけど、月見ゆうんやから秋やろ。前食うた時も三段リーグの終わった頃やったやん」

「てか、俺は食うてへんのや。今やったらお前らには負けへんで」

「ほな、秋になったら月見バーガー争奪トーナメントやろか」

「……三人やったら、もうトーナメントにならへんやんけ」



 ☗ ☖ ☗



 月日は流れ、俺が三段リーグ入りを決めた頃、仲間がまた一人奨励会を去ることになった。

 勝ち星が全ての厳しい世界。二十一歳までに初段にも上がれなかった者は、年齢制限で退会となる。


「俺は諦めへんで。アマの大会出まくって編入試験ゆう道も今はあるんや」

「……頑張れや。その頃までに俺らはプロになって待っとるわ」


 去りゆく背中を見送り、俺はただ一人残った仲間と駅への道を歩く。自分の三段昇段より、遂に四人が二人になってしまった寂しさの方が胸を占めていた。


「月見バーガー食ってくか。昇段祝いに飲みモンくらいなら奢ったるわ」

「ほな月見も奢ってくれや」

「アホ、他人の昇段がそこまでめでたいワケあるか。祝いの気持ちゆうたらせいぜい百円分や」

「そないケチやからお前は将棋も勝たれへんねん」


 店内でも勿論、バーガー片手にマグネット盤で将棋を指した。努力と才能と運気と、それ以上の何かの不足を年々思い知らされながらも、それでも俺達には将棋しかないのだ。


「遅咲きでもええ。最後は俺らが笑ったるんや」

「ああ。角屋や古田の分までな」



 ☗ ☖ ☗



「なんやねん、辞めるて。まだ四段昇段の年齢制限まで二年もあるやんか」

「地元の将棋好きの社長がな、今やったら第二新卒の扱いで入社させてくれるて言うねん」

「第二シンソツて何や」

「知らんけど、俺も潮時ゆうことや。この歳まで初段と二段を行ったり来たり。ええ加減諦めも付いたわ」


 最後の仲間を見送る時が来た。入会した頃は俺達の中で一番強かった彼でさえ、一度も三段リーグに辿り着くことすら出来なかった。


「……将棋を捨てる時は、死ぬ時やと思ってたんやけどな」

「家本、お前……」

「安心せえ、ホンマに死んだりはせんて。ただ……お前と顔合わせることも、もうなくなるやろな」


 元奨もとしょうでも、アマ強豪や道場の指導員として将棋界に関わり続ける者もいる。だが、多くは将棋と縁を切り、将棋を忘れることで人生の空白を埋めようとする。

 それを引き止めることなど、残された者に出来るはずもなかった。



 ☗ ☖ ☗ ☖ ☗



 そして今。

 取材対応と師匠への電話を終え、会館を出る頃にはとうに日が暮れていた。宿泊先の近くでマクドナルドを見つけ、俺は吸い寄せられるように店内に入っていた。

 初めて一人きりで食らう月見バーガーは、記憶より塩辛い味がした。


「……月見バーガーの季節って、ホンマに月、キレイなんやな」


 今まで盤面を見下ろすばかりで、夜空など見上げる余裕はなかった。……そして、これからもそれは同じだろう。

 何人もの同志を踏み台にして、ようやく四段プロまで辿り着いても、ここはまだスタートラインに過ぎない。生涯続く将棋人生の、ほんの始まりに過ぎないのだ。

 ――やつらの分まで俺が戦うんや。歴史に名を残す棋士になったるんや。

 バーガーの包み紙を握り締め、俺は滲む視界でいつまでも満月を見上げていた。

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