【秋027】月光、贈るに堪えず【性描写あり】

 天子様は美を好む。東京開封府このまちの民なら、知らぬ者はいない。

 筆を取れば、書跡は繊細にして雄渾。花鳥を描けば、花弁の脈一筋、翼の羽毛一毫までもが命を帯びる。庭を造れば銘木奇石をふんだんに配し、深山幽谷の風趣を人の世に創り出す。

 名高き「風流天子」を、私は今宵どうお迎えすればいい?


「三色の饅頭を手配しました、届いたら見目好みめよく盛ってお出ししてくださいね」


 牡丹が薄く焼き込まれた白磁の皿を並べつつ、妹は笑った。窓から差す昼下がりの陽が、通った鼻筋に薄い影を落とす。高く結った髪が鈍く艶めいて、黒がいまにも滴ってきそうだ。何人も皇子を産んだというのに、容色は少しも衰えない。


「月餅があるけど、それではだめ?」

「中秋節はもう三日も過ぎてます。無粋と思われたらおしまいですよ」


 真珠のかんざしを揺らしつつ、妹は少し呆れ顔になった。

 彼女が私を主上へ推薦してくれたと、知った時は舞い上がった。けれどだんだん怖れが出てきた。正しく振る舞えるか。妹と比べられはしないか。容貌も髪肌の艶も、私は彼女にまったく及ばないのに。


「物は私が用意できますけど、あとは姐姐ねえさま次第……そうですね、詩のひとつも口遊くちずさめば、主上の感興を惹けそうです」


 詩。

 懸命に記憶を手繰る。九月の半ば、初めて寵を受ける夜に相応しい詩句。わからない。詩を知らないわけではない。相応しいことばがわからない。

 妹は丸い目を細めて、窓の外を見た。煉瓦色の城壁の上、広がる空には雲一つない。


「今夜は晴れますね。望月懐遠などいかがでしょう」

「……どんな詩だったかしら」


 妹が唱える五言律詩を、私は後追いで繰り返した。

 ことばを胸中へ、懸命に刻み込んだ。






 夜。

 紅、黄、緑の饅頭は皿に盛った。燭の灯も机の左右に配した。

 私は椅子に座り、膝に置いた手指を震わせつつ主上を待っていた。陽は落ちきり、右側が少し欠けた月が、宮城きゅうじょうの瓦の少し上に浮かんでいる。中秋節は過ぎたとはいえ、まるい光は明るく鮮やかだ。

 私はただ月を見つつ、息を吐いては吸っていた。それでも、強張った背も肩も緩まない。渇いた喉を鳴らしても、わずかな唾も湧いてこない。

 少し背凭せもたれに身を預けようか――と思った瞬間、部屋の戸がかたりと鳴った。紅い袍服きものの男性が、部屋に入ってくる。

 落ち着け。落ち着きなさい、私。

 内心の焦りを気取られぬよう、あえてゆったりと頭を下げる。足音が、机の傍で止まった。


「面を上げよ。……そなたがきょう美人の姉か」

「はい。お気に懸けていただき光栄至極にございます、主上」


 答えつつ、顔を上げる。涼やかな目をした線の細い男性が、品定めをするように私を見ていた。

 何か言わなければ。

 焦る私を一瞥し、主上は饅頭の皿に手を伸ばした。黄のひとつを取り……なぜか皿に戻す。黄を、紅を、緑を、取っては戻し取っては戻し。いつお召し上がりになるのだろう、といぶかっていると、主上は最後に小さく頷いた。


「この器なら、これがい」


 並ぶ饅頭を見て、息が止まった。

 三色それぞれ別に纏めていた皿が、すっかり様変わりしていた。中央に黄が固められ、紅が緩やかに取り巻き、最外周に緑。白磁の皿を牡丹に見立て、饅頭の華が咲いていた。

 茫然とする。脳裏に妹の言葉が響く。


(無粋と思われたらおしまいですよ)


 うろたえつつ思い出した。

 そうだ、詩だ。

 昼に夕に、何度も繰り返したあの詩を、今こそ。


「今宵は月が美しいですね。海上生明月海の上に月が出て天涯共此時恋人たちは、同じ時に共に見る


 甘い声で唱えれば、主上が楽しげに目を細めた。

 離れて暮らす恋人同士が、共に同じ月を眺める詩。主上を待っていた身にはぴったりだろうと、妹が選んでくれた。ああ、あなたは本当に、この御方のことをよくわかってる!


滅燭憐光満蝋燭を消せば月光が満ちて披衣覚露滋上着を羽織れば夜露が冷たい


 囁きつつ燭を消せば、主上の身が寄ってきた。香を焚きしめておられるのか、涼やかな匂いがふわりと満ちる。

 あとは最後の二句。私は両掌で椀を作り、窓から差す月光に掲げた。


不堪盈手贈月光を手に満たしても、大切な人に贈れはしない


 主上の眼前、手をほどいて、光を宙に散らす。


還寝夢佳期佳き日を夢見て、眠りに戻る


 精一杯、婉然と笑む。

 主上の唇がほころんだ。安堵しかけた私へ、言葉が飛んでくる。


「それは『遠いゆえ、贈ろうとしても贈れない』という詩だな。私は目の前にいるぞ?」


 血の気が引いた。最後の最後で、私は――

 返答に窮する私の手を、主上は優しく包み込んでくださった。


「……まあ、言わんとすることは分かるが」


 手を引かれた先は、寝台だった。









 精も根も抜け果てた、けだるい身体を起こす。肌が、残暑にわずかに汗ばんでいる。

 べたつきの上から、昨夜脱ぎ散らした皮衣を羽織る。わずかに風が立ち、隣で眠る男の臭いが立ちこめた。獣じみた体臭と、強い酒精の香が鼻をつく。名も知らぬ征服者の男たちは、火のような高粱こうりゃん酒と共に私を買っていく。

 また、夢を見ていた。東京開封府あのまちの後宮で、寵を受けた夜のことを。


 天子様は美を好んだ。民は当然知っていた。

 書画しか語れぬ小人物を宰相に就けた。湯水のごとく銭を使い、国庫が干上がれば重税を課した。銘木奇石と見れば徴発し、運河を塞いで都へ運んだ。

 民は蜂起し、世は乱れた。そして……北方からの侵略に開封府は陥ちた。皇帝、上皇、皇族、その妻妾たち、万を越す人々が囚われ連れ去られた。主上も、私も、妹も。


 格子のはまった窓の外に、円い月が浮かんでいる。

 高鼾たかいびきの男を起こさぬよう、私はゆっくり立ち上がった。両掌を上向け、指を軽く曲げ、椀を作る。高く掲げれば、白い指を淡い光が満たした。

 美しいものはなくなった。美しい菓子も、美しい燭台も、美しい服も、美しい書画も、美しい人々も、美しい街も、美しい国も。なにもかも。

 けれど。


不堪盈手贈月光を手に満たしても、大切な人に贈れはしない……」


 誰にも聞こえぬように、小さく呟く。

 南へ逃れた人々がいる。主上の皇子がただ一人逃げ延び、長江の向こうに、臨安りんあん――時にんずる――と名付けた都を建てたという。

 はるか南の地へ、両手に満たした光は届かない。けれど。


「……還寝夢佳期佳き日を夢見て、眠りに戻る


 両手を広げ、掌中の月光を宙へ散らす。

 願わくは、いつかこの輝きが南へ届かんことを――そう囁けば少しばかり、この地獄に灯がともる。

 北にあっても、変わらぬ月の光。月の光を掬いあげる、精妙なることば。

 ただそれだけが、我が身に残された美しいもの。

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