【冬010】母のスープ
冬、母のつくるスープが大好きだった。記念日には必ず食卓にそのスープが並んだ。誕生日、謝肉祭、ノエル、そしてわたしたちだけの聖人の日。材料は知らなかった。母はわたしに家事を任せてくれなかったから。でも、愛情のこもったそのスープはわたしに不思議な力を与えた。スープを飲んだ後には世界が変わって見えた。空気中には普段は見えない霧の精霊が漂っていた。会話できないはずの動物たちと交流ができた。その理由を母に尋ねると、知らなくてよい、とだけ答えられた。いずれは教えてくれるのだろうと思って、わたしは幸福な子ども時代をぬくぬくと過ごしていた。
ある日、母が家に帰らなかった。すぐに帰宅するだろうと高を括っていたが、実際には十日経っても、百日経っても帰ってこなかった。母がわたしを捨てるわけがない。してみると、何かがあったんだ。わたしの知らないところで母が窮地に立っていると想像すると、空恐ろしくなった。しかし、わたしにできることはなかった。
千日経つ頃に、ふと鏡を覗き込んだ。そこにはガリガリに痩せ細った醜い女が映っていた。身嗜みを整えるということを、すっかり失念していたのだ。わたしは急いで入浴し、母の化粧品を拝借した。鏡の中には、ずいぶんとマシになった女性が映った。驚くべきことに、そこには母がいた。
その晩、わたしは考えた。母は遠くに旅立った。わたしの中に、その面影だけを残して。わたしは母がこれまでにくれた愛情を無駄にしないためにも、強く生きていかなければならない。このまま寝ているだけではいけないのだ。
わたしは食事を摂った。それは三年ぶりの食事だった。身体の隅々まで栄養が行き渡り、活力が漲った。やはり食事は大切だ。しかし、猛烈な物足りなさを覚えたのも事実だった。
母のスープが飲みたい。母が記念日に決まって作ってくれた、あのスープが飲みたい。わたしはレシピを探すために家中をひっくり返した。書棚には、まともに読めない書物がたくさん並んでいた。果たしてレシピ本はあった。挿絵からして間違いなくそうだった。しかし、この国の言語で書かれていない。親切なことに、『××語入門』と題された語学書も置いてあった。これを学べばレシピが明らかになるに違いない……。
森に生息する曼荼羅ヒトカゲの尾、高原を走る貝馬のたてがみ、山麓に巣を張る天狗燕の卵。思っていたよりも入手が困難な材料で、あのスープは作られていた。母がこれだけの材料を集めていたのだと考えると身震いがする。そんな折、何年かぶりに行商が訪れた。彼が来るまですっかりその存在を忘れていたが、母と懇意にしていた男だった。
「ああ、生きていたのか……」
行商は開口一番そう言った。万が一わたしが生きている可能性に思い当たり、この家を訪れたらしい。
「お前の母は死んだよ」
男がそう言ってもわたしは動揺しなかった。予想していたからだ。それでも不躾にそう告げる男に不快感を覚えた。わたしは使い魔に命じて男を縛りつけた。
「母に劣らぬ才能の持ち主だ」
男はそう言うと、易々と拘束を解いた。書物から学んだ不思議な力が、この男には通用しなかった。
「わたしはしがない商人に過ぎない。きみが求めるなら、商いをしよう」
そうしてわたしは男の顧客となった。男はわたしが入手できない素材を仕入れ、わたしはその素材を加工して手間賃を得た。そうするうちに、スープの材料のほとんどが手に入った。残りは二つ。一つは老人の脳で、もう一つは未だ解読できない何かだった。もう一つ、それは生き物が必ず秘めている何か……何か……。
とりあえずわたしは、人里に降りることにした。わたしが住んでいるのは山奥の小屋だったが、麓に人間の村があることは母から聞いて知っていた。母の家から離れるのは気が引けたが、これもスープのためだから仕方がなかった。××語……魔術の言語を修得するにつれ、わたしにできることは飛躍的に増えていった。今では山のほとんどの動物がわたしの仲間だった。鳥の囀りに耳を澄ませば村への道のりは明白だった。鹿が獣道を踏み固めて、わたしが歩きやすいように配慮してくれた。
……人里に辿りついたとき、わたしは用心して身を潜めた。これまでに感じたことのないような悪意が立ち込めていることに気づいたのだ。もともとは病死した老人の死体を買い付けるつもりだった。しかしわたしとまともに会話してくれるひとは一人もいないであろうことが、容易に想像できた。
スープを諦めるつもりはない。葬儀の際に遺体を掠めとるしか手段がないことを悟り、教会の天井裏に潜むことにした。
それはわたしが事前に想像していたよりも、怖ろしい行為だった。
見つかってはいけない。
ただその強迫観念がわたしの脳裏を支配していた。人間が怖いのではない。十字架の前に差し出されるのが怖いのだ。早く遺体を……早く遺体を!
わたしの恐怖心は不様にも外部に漏れ出ていたらしい。違和感を覚えた神父が天井裏を捜索し、わたしを発見した。
「魔女だ!」
そいつは叫んだ。わたしは追われる立場となった。教会では一切魔術が行使できなかった。女のか弱い肉体では抵抗するべくもなく、神父とその信者らに拘束された。わたしは教会の地下に監禁され、異端審問を待つ身となった。狭く、埃っぽく、鉄格子で仕切られた部屋だった。母も同じような目に合ったのだろうか。想像すると、悔しく、泪が出た。
……牢獄の戸が開いた。少年が立っていた。
「行こう」
なぜか少年はわたしを助けてくれた。清潔に身なりを整えた、年下の男の子だった。戸惑うわたしを見て、彼は、
「以前、魔女に病気を治してもらった。たぶん、あなたの母だ」
と告げた。
わたしは天啓を得た気がした。
スープの材料。
解読できなかったあの文字は、間違いない、少年の生き肝だ。
「ぼくは魔女の騎士になる」
と彼はいう。
「わたしと一緒に来るということ?」
「そうだ、あなたはぼくが守る」
スープ。
ああ、母のスープ。
あの、美味なるスープ。
少年の眼差しは、わたしが見たことのないほどに透き通っていた。
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