【冬011】或るChristmasの細やかな死【残酷描写あり/暴力描写あり】

 1886年12月24日ロンドン市内に垂れこめた煙霧スモッグは日没を過ぎて雪にかわった。雪は貴族の邸にも工場の屋根にも教会の鐘塔にも貧民窟の路地にも等しく降りつもる。

 Industrial Revolution産業革命を経て膨張した都は貧しい労働階級に溢れていた。ひと握りの光に群がった影ばかりが肥大していく様は何処か怪物じみた異貌で、文明の歪みというものを如実に表す。

 瓦斯灯のない路地の煤けた壁にもたれ、彼はたたずんでいた。

 齢は十から二十の間。産まれたのはこんな寒い晩だったはずだが、いくつになったのかは彼自身も知らなかった。襤褸の裾からつきだした痩せぎすの細い肢に伸びきった襟もとから覗く肋骨の浮きだした胸。悄然な瞳だけが鈍く光っている。伸び放題になって縺れた彼の髪にも雪は静かにさめざめと降りつもった。

 彼の腹には短剣が刺さっていた。

 ほたほたと血が垂れて、雪を融かす。彼はそれを抜きもせず、ぎこちのない足取りで明るんだほうにむかって歩きだした。

 彼の足もとには男が倒れていた。英国の紡毛糸フランネルの服に肥えた身を押しこめた初老の男だ。Upper class上流階級の証である懐中時計が胸ポケットからこぼれていた。

 それは今晩の彼の標的だった。

 彼は殺し屋だ。頼まれれば、紳士でも娼婦でも、殺す。他に生きかたを知らなかった。知りたいと考えたこともなかった。そう生まれた。

 だからいつか、こんなふうに殺されることも知っていた。

 今晩の標的を殺し終えた彼のもとに駈け寄ってきた娘がいた。何処かで見掛けたことのある娘だった。

 娘は彼の腹に短剣を突き刺して悲鳴じみた声でなにかを叫んだ。ああそうか、ひと月も前に殺した標的の娘だ――彼女の殺害は依頼にふくまれていなかった。だから殺さずにいたのだが、まさか報復をしにくるとは想わなかった。

 暗がりに逃げていく娘を追いかけ、今度こそ殺すこともできた。だが彼はそうしなかった。

 雪に落ちた赤い血痕をみて、彼は微かに息を吐いた。

 この身に巡る血は赤だ。貴族の流す血もまた。blue blood青い血など誰にも流れていないことを彼はすでに知っている。

 路地を抜け、拡がった町は眩しいほどにきらめいていた。

 賑やかな街路に飾られた樅木もみのきの枝には蝋燭が燈され、頂には星の金細工が乗せられている。蝋燭のゆらめく焔が雪に映ってきらきらと、星の屑が降りそそいでいるかのようにみえた。

 何処からか聖歌が聴こえてくる。彼には透きとおる歌声が、きらめく雪の結晶と一緒に降ってくるように感じられてならなかった。

 祝祭に弾む雑踏は、すれ違った彼の腹に刺さった短剣に気づかない。

 彼はふと、通りがかりに、暖かなあかりのともった窓を覗いた。

 なかでは家族がそろって細やかな食卓についていた。ふたりの子どもたちは指を組み、お祈りの言葉を唱えてから、ドライフルーツのつまったミンスパイを頬張る。父親のまなざしは暖かく、紅茶を淹れる母親の背中も慈しみに溢れていた。

 あり触れた幸せの風景だ。

 彼は瞳を細めた。妬み、憎むには、窓硝子ひとつに隔てられたその幸福は遠すぎた。

 彼には親というものがいなかった。

 教会が経営する孤児院は劣悪な環境だった。聖書の一節どころか、食事の際のお祈りひとつ、教えてはくれなかった。ただ朝から晩まで過酷な労働を強いられ、身体を壊そうものならばひときれのパンも没収され、殴られ、蹴られて、命を落とすものが後を絶たなかった。

 生まれつき顔だちの整っていた彼は、後に牧師のお気にいりになった。仕事のノルマは減り、かわりに牧師は彼を寝所に呼び寄せた。牧師は彼を鞭うち、髪をつかんで組みふせ、玩具のように扱った。それを知らないまわりの孤児らは休んでいてもパンが貰える彼を妬み、無視するようになった。

 あるとき、突然に何もかもが堪えられなくなった。かびたパンの硬さも牧師の鞭も孤児たちの視線も、そうして彼は気づけば牧師の胸に果物ナイフを突きたてていた。

 彼の頭のなかで、いつか見た飢えた野犬が猫を喰い殺した場面がぐるぐると廻った。昨日は貴族の邸から金糸雀を咥えてきた猫だった。でも今日は猫が犬に喰われる。殺すことでしか、生き延びられない。彼らも、自分も。

 それが不幸なのかどうかすら、彼にはわからなかった。

 橋を越え、坂をくだり、蹌踉と歩き続けていた彼はついによろめき、硬い石畳に倒れ臥した。痛みはすでに凍てつき、痺れるような寒さだけがあった。

 ふと鈴の音が聴こえた。彼は最後の力を振り絞るように視線をあげる。

 振り仰いださきには、女がいた。ヴェールを被ったその女は、底のない慈愛のまなざしで彼を見降ろしている。青い瞳はさながらBethlehemベツレヘムの星だった。銀霜の睫は瞬きするごとに光を振りまき、瞳をいっそう清かに際立たせた。頬には夏の薔薇が綻び、唇は緩く結ばれていてもなお春の麗らかな歌があった。

 これほどまでに綺麗なものを産まれてはじめてにみた。

 彼は祈りかたを知らない。

 だが今、訳もなく、ただ無性に。祈りたいと想った。

 その祈りのさきに神がいなくとも。楽園がなくとも。

 震える指を組み(どうか)差しだすようにうなじをそらして(どうか)懺悔をするわけでも、重ねてきた罪を許されたいと望むでもなく。

(どうか)

 何にも結びつくことのない言葉だけが溢れた。

 望みなどない。幼い頃からそんなものはなかった。生き延びるためだけに生き延びてきた。

 けれども強いていうならば、女の透きとおる瞳に映るみずからがひどく汚れた姿であることを羞じた。

 彼の想いを知ってか知らずか、女はふわりと微笑んだ。

 それは、無形の施しだった。施しなど受けたことのない人生に、最後に降ってきた祝福だった。

 幸福というものが今ならば彼にも解る。

 聖歌はなおも高らかに響き続けていた。歌声はやはり彼の頭上から降り、このロンドンという異形の都を等しく擁する。富めるも貧しきも、敏きも愚かしきも。

 彼は身を折り、女のつまさきに接吻をした。神のいない巡礼。信仰なき殉死……それきり彼は動かなくなった。

 横たわるその身に雪が降りかかる。

 Alabasterアラバスタを彫りあげた聖女の像だけが、その細やかな死を慈しむように見降ろしていた。

 まもなくロンドンに朝がくる。

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