【冬012】サイレント


 並ぶ街灯の光は、雪が積もった路面を照らしている。

 それは白い地面と黒い空ばかりが強調された寂し気な空間を、少しだけ優しい色合いに変えていた。

 普段であれば、たくさんの車が行き来し賑やかな道路も、今夜はひっそりとしている。


 そんな空間に、錆の浮いた屋根がついた小さなバス停が、ぽつんと一つあった。


 そこにはコートを着た女性が立っていて、スノードームのように落ち続ける雪をぼんやりと眺めていた。


 彼女はここに辿り着くまでのことを、思い出している。






 

 三ヶ月前から、二人の関係はずいぶん変わってしまったことには気付いていた。

 些細なことで掛け違ったものは、時間が経つほど元に戻すことが難しい。


 ぎこちないままディナーの約束を交わし、一欠片の希望を持って店に来たものの、漂うのは別れ話特有の、あの空気感。


 やっぱりかと考えながら食べるチキンはぼやけた味で、ワインはただ苦いだけの水だった。


 付き合いたての頃に来れば、感動で目が潤むような、そんな素敵なお店の内装も今はお葬式の花輪と同じにしか思えない。

 

 中身のない話は、お互い続ける意味が見いだせないから、二往復も続かなかった。重たい時間がただ過ぎる。


 いつまで経っても話を切り出さない彼が、トイレに立つ。不用意に置いていったスマホが目に入る。テーブルの上で何度も震えて落ちそうになるから、思わず手に取った。


 すぐさまテーブルに置けばよかったのに、表示された名前が気になって元の場所に戻せない。


 みつめるうちに震えがとまり、かとおもえば、また震え、画面には通知メッセージと短い本文。


 『終わったらいつもの場所で』


 苗字だけの差出人。電話の相手と同じ名前。気にしすぎだといわれようとも、短い文章から目が離せなかった。


 見ないふりをしていた色々な事が答えになって、像を結んでしまったからだ。


 震えが止まった筈のスマホが今度は不規則に震える。床に叩き付けてしまいそうになるのをなんとか抑えて、それをテーブルに置く。


 おどろくウェイターに一万円を押し付けて、預けてあるコートを早くだしてと急かす。彼が戻ってくる前に店をとび出すと、店に入った時には無かった雪が道を埋めていた。


 はやくここから離れたくて、行き先も決めずに歩きだす。すれ違う人みんなが、振り返るぐらいの酷い顔をしている自分が腹立たしくて、恥ずかしかった。


 コートのフードを深くかぶり、逃げるように狭い路地に飛び込む。


 一歩踏みしめるたびに、あれもこれも、全部嘘になったから、こんな思い出は投げ捨てろと、叫ぶ声が耳鳴りになって響く。頭は熱く、息は浅い、わかりやすいぐらいに動転している。


 冷たい外気が、茹った頭の芯を冷やしてくれるまで、ひたすらに歩いて、曲がって、また歩く……。


 熱くなった頭が冷えてきたと自覚出来る程度には歩き、少し疲れて立ち止まった時。店から出たのは衝動的だったけど、案外悪くない幕引きだったとも思えてきた。


 彼は、わたしを傷付けるのが怖くて、遠回しに伝えるのですら、ためらっていた。


 あのままあそこに居れば、そんな彼にイライラして、ヒステリックに叫んでいたと思う。


 綺麗に終わらせるのが無理なら、どう思われようと逃げてしまった方がきっとお互いのためだ。


 相当鈍い彼だけど、わたしの席の近くに置いてきた彼のスマホで、大体のことは察したと思う。


 コートのポケットで何度も鳴る通知音がそれを伝えてくる。どうせ謝罪と心配のメールだろうから見る気も起きない。


 電話をかけてくればすぐに出て、表示された名前の相手をだしてなじりながら、わざわざ店なんか用意してどうするつもりだったのか、馬鹿じゃないのかと、優しさと優柔不断をはき違えた、その態度に対して、ありったけの罵声を浴びせてやるのに。


 ……だけど、彼には電話を掛けてくる勇気がないことも知っている。

 

 せっかく落ち着いてきたのに、自分だけが愚か者みたいな構図が悔しくて、二時間前まで好きだった人が、今は嫌いな人になった事実が苦しくて、気持ちがまた暴れようとするのを抑え、くちびるをかみしめる。


 声を出して泣きそうになるのを我慢しながら、行き先も決めずにまた、歩きだす。


 




 ……どれぐらい経っただろう、彼女は歩き疲れて、再び立ち止まった。その目の前には、まっすぐ左右に伸びた、大きな道路と立ち並んだ街灯、それと屋根のついた古びたバス停。


 もう怒りと熱と悲しみに任せて、歩ける元気は彼女にない。道路を渡り屋根に潜り込んでいく。


 それからしばらくの間、彼女は降る雪をぼんやりと眺めていた。気持ちの整理がつき、周りを見る余裕が出来たからか、自分が道路に残した足跡が消えている事にふと気付く。


 彼女はクスリと笑った。ほんの少しの時間で、跡形もなく消える足跡と自分の気持ちが、なんだか似ているように思えたからだ。


 それから彼女は、屋根から少し飛び出るように手を伸ばした。手のひらには小さな結晶がいくつも落ちてくる。すぐに溶けて消えないことを、不思議だなと考えながら、停留所の標識に書かれた時刻表と路線図の方へ顔だけを向けた。


 バス停の外では、エンドロールを逆再生したかのように雪が降り続いている。


 標識に据え付けられた時計は二十一時三十分を差していた。


 最終便のバスがくるまで、あと二十分。


 

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