【春005】春の鷹

 レヴァントの高原を渡る風は若葉のにおいをはらんで柔らかに僕の身を包んでくれた。どこかで花が咲いているのだろう。雨上がりのぬるい空気の中、かすかに甘い香りが漂っている。

 抜けるように澄んだ空には雲一つなく、大きく翼を広げた影だけがくるりと輪を描いて隕石のように落ちてきた。かすかに響く小動物の断末魔。


 だだっ広い草原を見下ろす崖の上、腹這いになった僕の戦闘服にじっとりとした湿気がじわじわしみ込んできて気持ち悪い。

 今は身動きするわけにはいかない。僕の獲物はまだ影も形も見えぬのだから。


 どのくらい経っただろう。かすかなエンジン音が僕の鼓膜を揺らした。

 ついにその時が来たようだ。


 僕は愛用のライフルの照準器を覗き込み、『獲物』の姿を見定めた。戦闘服姿の軍人たちに守られた、小洒落た背広姿の太った男。

 百年前に作られた木製の銃把はしっくりと手に馴染み、心地よい重みが与える緊張感が、波立ちかけた僕の心を鎮めてくれる。


 僕の隣に伏せた観測手スポッターが淡々と数値を告げる。

 標的までの距離や角度、的の移動速度や風、その他もろもろ。

 告げられたデータが脳に届くと、手が勝手に照準を合わせ、頭の中でカウントダウンが始まった。


 僕の頼りになる相棒。生まれた時からずっと一緒の魂の片割れ。

 名狙撃手なんて言われているが、僕がどんな任務も確実にこなすことができるのは、彼がいてくれるからだ。

 『獲物』を確実に屠れるのは、彼が正確に目標と周囲の状況を伝えてくれるから。無防備な体勢でうずくまっているだけの僕がただ敵を撃ちぬく事だけ考えていられるのは、必ず彼が守ってくれるから。


 常に二人一組ツーマンセルで行動する僕らは、片方がやられてしまえばもう戦士として役に立たない。いや、彼なら僕がいなくてもうまくやっていけるかも。彼に守られながら、彼に導かれるまま、はるか彼方の敵を狙い撃つしか能のない僕なんかと違って。


 しょうもない思いが心をよぎる間にも僕の脳はカウントダウンを続け、指は自動的に引き金を引いた。


 乾いた音が響き渡る。

 銃身に取り付けた抑制器サプレッサーが目立つ発砲炎バックファイアを包み隠し、本来なら鼓膜を突き破りかねない轟音を、くたびれた紙袋の破裂程度に抑え込んでくれた。

 彼が空中に引いたラインをなぞって飛翔する7.62mmRの弾頭は、秒速800mの速さで標的へと突き進む。誰かの生命を奪うために。


命中ヒット……周囲に動きなし」


 観測器を覗いた彼が低い声で告げる。寄り添って伏せている僕の耳にようやく届く程度のかすかな声。それは任務完了……すなわち誰かの生命の終わりを意味していた。


 これが僕たちの日常だ。


 いつものように冷えたばかりの薬莢を回収するとポケットに入れた。絶対に落とさぬようボタンを留めると、頷きあって後退する。


 砂漠蜥蜴よりも早く動いてはならない。


 そんな教えの通り、ゆっくり時間をかけて這いずって、大きな岩陰に入ったところでようやく身を起こす。互いの肘をすり合わせる、故郷に伝わる合図と共に声を立てずに笑いあった。


 抜けるような空は相変わらず雲一つなく、山肌にへばりつくように生えている低木が、青々とした葉を風にそよそよと揺らしている。

 血なまぐさい命のやりとりがあったばかりとは思えぬのどかな光景。

 ただ硝煙の臭いだけが先ほどの出来事を物語っていた。


 美しい峡谷を目の隅で見下ろし、僕は自分たちのちぐはぐさに思いを馳せて苦笑する。


 僕の持つ銃は百年以上も前に北方の雄と恐れられるヴァリャーギで作られた木製ライフルだ。中身は砂漠の国アムル在住のノフチー人マイスターが、手に入る部品すべてを組み上げて、どんな最新型にも負けない精度と操作性に改造してくれた。世界中どこを探しても二つとない、僕の宝物だ。

 ついさっき僕の耳を守ってくれたサプレッサーは氷結スエビ海に面したスオミ製。

 彼の武器はヴァリャーギで五十年も前に作られた骨董品の自動小銃で、照準器は世界最北の内陸国ポーラツク製。

 肌身離さず持ち歩いている装備だけでも、どこの国のものやら判断に困る。


 僕たち自身もそう。

 僕たちのルーツのはずのシュチパリアはとうの昔に崩壊し、祖父の代に流れ着いたダルマチアは長く続いた民族紛争が落ち着いたばかり。

 戦争が終わったはずの村々はわずかな耕作地と飲み水をめぐり、いまだ部族ごとに血で血を洗う争いを続けている。

 政府が機能しない国の法律に効力はなく、誰もが数百年前の部族法に従って生きている。そこでは誰かが誰かの仇を討てば、その誰かの仇を誰かが討たねばならない。


 僕も彼もそうして仇を討って、誰かの仇となった。もはや二度と故郷の土を踏むことはかなわぬ僕らは、ダルマチア人でもシュチパリア人でもない。


 そして故郷から何百キロも離れたこのレヴァントの高原で、いつから始まったともつかぬ紛争に身を投じている。


 同じ神を崇める同胞が背信者の圧政に抗い、自由と独立のため必死に闘っている。

 人間の決めた俗悪な法や国境を超え、神の定めたもうた掟のもと、悪しき輩と闘わなければ。全世界から同志が集い、いくつものゲリラ部隊を形成した。

 ある時は連携し、またある時はばらばらに、神の名を汚す裏切者どもと闘っている。


 でも、そんな建前はどうでも良いのかもしれない。


 結局、僕たちは戦場でしか生きることができない。

 血と硝煙と鉄と焔と、そして土。

 それらのにおいに囲まれ、殺すか殺されるかの緊張感の中にいなければ生きていけない。


 さもないと、自らの手で奪ってきた命を数えたくなってしまうから。


 ひとつの身体の中でいくつもの大きな正義と小さな感情があるいはせめぎあい、あるいは融けあいながら混在している。


 戦争とは暴力をもって行われる政治の一形態。


 そんな普遍的な事実はどうでもいい。

 僕たちは、戦士という名の兵器の一種。それ以上でもそれ以下でもない。


 戦士の役割は、ただ効率よく殺すこと。殺して殺して殺し続けて、最後に自分が殺される。

 その時、いかに効果的な死に方をして仲間に利益をもたらすのか。そこまでが戦士の役割だ。

 そこから先は知ったことじゃない。


 ただ、その終わりの時、彼があまり苦しまなければいい。


 そよそよと吹き渡る高原の風に、ふとそんなことを願った。


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