【春006】卒業式

 昼過ぎの教室は、まだ明るいはずなのに暗く見えた。先生は、一人で腕組みして黒板を眺めている。卒業式直前の私たちが書きたい放題書いた、黒板を眺めている。


 先生、と私は呼びかけた。彼はかなり仰天した様子で私のことを見て、ちょっと恥ずかしそうに「なんだ柏倉か」と呟く。


「クラス会はどうした。カラオケだろ」

「先に始めててもらってます」

「忘れ物か? そんなんじゃこの先不安だな」


 私も不安だ。明日から先生に会えなくて、私はこれから生きていけるだろうか。


 先生、と私はもう一度呼びかける。

「先生は十年後、私のことを覚えてると思いますか?」

 彼は瞬きをして、「たかだか十年じゃ、覚えてるだろう」と答えた。

「お前たちにとって十年は気が遠くなるくらい長い時間かもしれないが、俺くらいの歳になるとあっという間だ」

「じゃあ二十年後は?」

「さあ……。その頃俺は定年だ」


 教室の窓は全て開いている。風がカーテンを揺らして、桜の花びらを運んできていた。暖かい日だった。春の空は、やわらかく青い。


 先生、私が先生のことを好きだったの、知ってましたよね?


 たとえばそんなことを言ったって、私みたいな子どもはこれまでにもたくさんいたのだろう。それだけじゃ、きっと私はこの人の特別にはなれない。

「先生の“とくべつ”が一個だけ欲しい」

 私はそう言った。たぶん、第二ボタンをねだるような気持ちだった。

 先生は微かに笑って、「俺の“特別”はここにはない。大人はそういうものを職場に持ちこまない」と言った。


「私のこと……迷惑でしたか?」

「いいや。お前は本当にいい生徒だった」

「先生にそう思われたくて必死でした」

「俺がお前に何かしてやったことがあったか?」


 別に、そういうわけじゃないと思う。ただ私にとって、信頼に値する大人が一人いた。それだけだ。


「私、先生のこと好き」

「そうか」

「結婚したいとか、そういう意味の好きです」

「そうか」


 真っ直ぐな、私の大好きな薄茶色がかった目で先生は私を見て、言った。

「俺はお前をそういう目で見たことはないし、これからもない」


 また、風が吹く。

 私の高校生活は終わった。貰った卒業証書は鞄に突っ込んであって、当たり前のように毎日会っていた先生とは、明日から会う理由がなくなる。こんなに好きなのに、それはこの人と会う理由にはならない。


 私は思わず、「二十歳になったら」と口を開いていた。

「もう一度、言いに来ていいですか? 二十歳じゃまだ子どもですか? いくつになったらいいですか?」

 ほんのちょっとため息をついた先生が、なぜか壇上を降りて生徒の椅子に座る。手招きされて、私も困惑しながら先生の隣の椅子に座った。


「お前がそうしたいと言うなら、別に止めない。でも俺はお前の望むような答えを出せないだろう。お前をそういう目で見ることはない。それはお前が子どもだからじゃなく……いや、お前が子どもだからなんだが、お前が思っているのとはちょっと違う意味なんだ」

「……どういうことですか?」

「確かにお前はいずれ大人になるだろう。じゃあそのうち俺に追いつくのかというと、そうはならない。お前と俺には、二十歳以上の差がある。十年後にお前は大人かもしれないが、その頃俺は五十だ。五十の俺から見たら三十前のお前は子どもで、六十の俺から見れば四十前のお前も恐らく子どもだ。この差は決して縮まることはない。別に歳の差の恋愛が悪いとかそういう意味じゃなく、ただ俺個人の恋愛対象からお前は外れているし、外れたまんま、自然の摂理としては俺がフェードアウトしていく」

「そんなの……その時にならないとわからないと思います」

「そうだな。だから止めはしない。だが、時間の無駄だと俺は思うよ。お前の人生はまだまだこれからで、何もこんなおっさんにつまずいていなくてもいいんじゃないかと思うわけだ」


 そんな風にしっかり諭されて、私は俯く。机に頬杖をついた先生が、「それと」と続けた。

「俺には娘がいる」


 私は思わず立ち上がり、「えええっ!?」と叫んでしまう。

「む、むすめさん!? 生物学的に!?」

「そうだ。俺の遺伝子をしっかり受け継いだ娘がいる」

「結婚してたんですか!?」

「悪かったな、言わなくて」

 呆然として立ち尽くす私に、先生は肩をすくめて「別に黙っていたわけじゃないんだが、教師のプライベートなんか興味ないだろ?」と言う。私は放心して、もう一度椅子に腰を下ろした。

「いつ結婚したんですか?」

「二十七の時」

「勝てないじゃん」

 まあな、と先生は頷く。私は長めのため息をついた。


「先生」

「うん?」

「『こいつ粘るなー』って思うでしょうけど」

「なんだよ」

「私が同い年だったらワンチャンありましたか?」

「俺は生徒のことを1ミリもそういうアリかナシかみたいな目で見たことはない」

「1ミリだけでいいので考えてくださいよ」


 うーん、と先生は悩む素振りを見せる。「どうかな」と言って立ち上がった。

「こればっかりは巡り合わせ次第だろう。でも、」

「でも?」

「お前はたいそう素敵なお嬢さんだよ、俺から見ても。案外、同い年の俺と出会わなくてよかったかもしれないぞ。もっといい男を探せ」


 私は頬を膨らませ、「ずっるー!」と指をさす。先生はけらけら笑い、「ハイハイ。クラス会で俺がどんなにひどい男か広めてこい。それで気が済むまで失恋ソングでも歌うことだな」と教室を出て行こうとした。それから途中で振り向く。


「卒業おめでとう、柏倉」

「え? あ、はい」

「俺の『卒業おめでとう』を二回聞いたのは、こんな時間まで残ってるお前ぐらいだぞ」


 じゃあな、と言って先生は今度こそ歩いて行ってしまった。私はしばらくぽかんとしていたが、やがて鞄を握りしめて立ち上がる。

 誰もいない廊下を歩きながら、明日からもう使わない制服の袖で雑に涙を拭う。

 卒業したんだな、と思った。先生からも。

 取るに足らない先生からの“とくべつ”を抱えて、私は大人になるのだろう。少しずつでもこの日のことを忘れていくのか、後生大事に抱えていくのか、それはまだわからないけれど。

 先生が私にくれた“とくべつ”は、執着し続けるにはあまりにもくだらなくて、いい思い出にするのに十分な輝きを放っていた。

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