【冬034】あの日の雪の待ち惚け

 娘が婚約者を家に連れてきた。いつかその時が来ることは分かっていたが、出会いの場はマッチングアプリ、素性は歳下のライトノベル作家などと聞かされては、警戒しない男親は世に居るまい。

 不惑を過ぎてから授かった一人娘。妻に先立たれ、忙しない士業の日々の中、男手一つで育ててきた自慢の娘だ。「貴様に娘はやれん」などとは言わないまでも、相手の為人ひととなりくらい見極める権利はあるだろう。

 しかして、さすが娘の選んだ男と言うべきか、今時の若者にしては礼節を弁えた青年だというのが第一印象だった。軽薄な題名や子供じみた表紙に反して、意外としっかりした語彙を使いこなす作家であることも、悔しいが事前に承知している。

 私がそのことを口にすると、彼は目を輝かせて「読んで下さったんですか」と身を乗り出した後、頬を掻きながらこう述べた。


「実は、祖母も作家業でして。よく色んな言葉を教わったんです」


 はにかむその笑顔に、まさか、と思った。


 彼を見送った後、私は微かな動揺を気取られぬよう娘に尋ねた。


「彼、北のほうの出身だと言っていたな」

「なあに、お父さん、弁護士会照会でも掛けるつもり?」

「いや……」


 彼に身内の筆名を聞かなかったのは、祖母、という響きに一抹の寂寥を覚えたからでもあった。――せめてその言葉が、母、であったなら。

 そういえば娘には明かしていなかったか。私もかつて作家を目指していたことは。

 遠き青春の記憶が、一葉の写真と共に思い起こされた。



 ❅ ❅ ❅



 あの日、雪の降りしきる東京のステーションで、なけなしの金をはたいた一張羅に身を包み、私はの訪れを待っていた。

 文芸誌の文通欄で知り合った同好の士。歳も近く、共に作家を志す者同士、私達は折に触れ便りを交わしては互いを励まし合う仲だった。

 書道の手本のような筆跡と、文面の端々から香り立つ上品さ、そして写真に収まる美しい着物姿に、いわゆる良家の令嬢であることは容易に察せられた。物語を書いている時だけが唯一、自由になれる時間なのだと彼女は言っていた。

 若者のアプリ婚活を笑う資格は私に無いかもしれない。写真と文字でしか知らない彼女に、私はその時、確かに心惹かれていたのだから。

 新人賞で落選を繰り返し、そのたび絶望に苛まれながらも、いつか大作家となって彼女を迎えに行くのだという、夢想とも呼べる宿願だけが私の根気を繋ぎ止めていた。

 そんなある日だった。彼女が実家の目を盗み、ただ一度だけ私の下宿に電話を掛けてきたのは。

 見合いのため上京させられる日、自分を連れて逃げて欲しいという。あの時代、結ばれ得ぬ恋に落ちた若者の考える事といえば、駆け落ちと相場が決まっていた。


 しかし、待ち合わせの駅に彼女は現れなかった。

 懐に忍ばせた手紙を何度も見返し、日付の間違っていないことは確認した。都会を知らない彼女が反対側の出口に行ってはいまいか、何度かこの目で確かめにも行った。

 冬の日が落ち、駅が閉まるまで待ち続けて、遂には確信せざるを得なかった。彼女はやはり寸前で気が変わったか、計画を家族に知られて連れ戻されてしまったのだ。私の恋は、これで終わったのだと。

 そして、それきり二度と小説を書く気は起こらなかった。いつしか、作家になることではなく、彼女の愛を得ることが原稿に向かう理由となっていた自分に気付いてしまったからだ。


 それでも、あの時の私に、僅かな勇気と胆力があれば。

 あの後、彼女の実家まで押しかけていれば。せめて連絡を請う手紙の一つも出していれば。

 ――そんな後悔すら、時が経つほどに忘却の彼方に遠ざかっていった。



 ❅ ❅ ❅



 両家の顔合わせは冬に行われた。先方からは当人の両親とが参加しての細やかな会食だった。

 写真の彼女であることは一目で分かった。その息子と孫に、穏やかな笑顔が受け継がれていることも。

 私が青春の心残りを断ち切るように司法試験に打ち込んでいた間、彼女は嫁ぎ先で若くして子を産み……。その子供がさらに人の親になるほどに、長い時が流れていたということか。


 会食の後、少しだけ二人で話す機会があった。料亭の庭園には雪がちらちらと舞い始めていた。


わたくしもすぐに分かりましたわ。ご立派になられて……」

「立派なのは貴女の方だ。私は失恋と同時に筆を折ってしまいましたが、貴女は人妻となっても夢を追い続けていたのですね」


 素直な感嘆を込めて言うと、彼女は「失恋?」と僅かに首を傾げた。


わたくしも、悲しみを撥条ばねにして頑張りましたのよ。今では孫に部数を抜かれてしまった、しがない零細作家ですけれども」

「パソコン書きの即席小説と、貴女の純文学とでは比べられますまい」


 彼女は「あら」と控えめに笑って、昨今のネット小説も馬鹿に出来ませんのよ、と続けた。


「貴方様の小説も、今なら簡単に世に出ていたでしょうに。そうしたら、あの日、わたくしが雪の中で待ちぼうけを食らうことも無かったかも知れませんわね」

「……はい?」


 私と彼女は揃って目をしばたかせた。――それから、互いに幾十年越しの思い違いをしていたことに気付くまでに、さほど言葉は要らなかった。

 あの日、彼女は駅の反対側で私を待っていたのだ。不運にも互いに逆側を確かめに行く際にすれ違いが生じ、遂に巡り合うことが出来なかったのだ。

 今更それを悟ったところで、最早笑う気も泣く気も起こらないほど、私も彼女も歳を重ねすぎていた。


 そこで私のスマートフォンが震えた。居場所を問う娘の声に、もう戻ると答えて通話を切ったとき、彼女は切なげにくすりと一つ微笑を零した。


「一人に一台の携帯電話。若き才能に光を当てるインターネット。誰が誰と結ばれることをも咎めない世情……。そのどれか一つでもあの時代にあれば、わたくし達の人生は変わっていたのかしら」


 一つ一つを数え上げるような彼女の声に、思わず言葉が口をついて出た。


「貴女にずっと伝えたかったことがあるのです」

「奇遇ですね。わたくしもですよ。……でも、それを告げるには、あまりに長い時が経ちすぎましたわ」


 彼女の手にも今や指輪は無かったが、その肌に刻まれた皺の深さが、巻き戻せない時間の重さを物語っていた。

 家族が呼びに来るまで、私は彼女と二人、雪の舞う黄昏の空をただ黙して見上げていた。

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