【秋016】ぶどう狩り
かつて、ぶどう狩りが平和だった時代があったと聞く。
その頃は、家族でぶどう畑に行って、頭上に実ったぶどうを採って食べて、お土産にも持って帰って、そんな楽しい行楽だったのだという。
今となっては、ぶどう畑は気楽に近付けるものではない。あそこは、奴らの巣になってしまった。人間は、ぶどう畑が広がろうとするのをなんとか抑えるのにいっぱいいっぱいだ。
中には、人間の手に負えなくなったぶどう畑に飲み込まれてしまった村や町もあるくらいだ。
俺の家は、そんなぶどう畑の近くにあった。代々ワイナリーを営んできた。それは今も変わらない。
ぶどう畑が危険になった今でも、狩りをしたぶどうから作ったワインは良い商品だ。そうやって、俺たち家族は生活している。
でもそれは、ぶどう畑の侵食に怯える日々でもあったし、ぶどう狩りの危険の上に成り立っている生活でもあった。
近隣の家の男たちがぶどう狩りに出発するのを見送る度、俺は情けないような申し訳ないような気分になる。
ぶどう狩りへの参加は、各家庭から最低男一人が義務付けられている。俺の家からは、弟が参加していた。
「兄貴は、この家を守らないと。こういう時のために俺がいるんだからさ」
そんなふうに笑って、弟はゴーグルを下ろした。
家を出ても良いんだぞ、何度かそう言ったことがある。それでも弟は笑って首を振った。
「俺、ぶどう狩りが割と性に合ってるんだよね。それに、兄貴のワイン好きだからさ。兄貴にはワイン作りに集中してて欲しいし。俺がまた、ワインにぴったりのぶどうを狩ってくるから、兄貴は最高のワインを作ってよ」
弟に懐いている長男は、興奮した面持ちでその姿を見送った。
「俺も大きくなったら、ぶどう狩りに参加するんだ! それででっかいぶどうを狩ってくる!」
子供らしい他愛もない言葉だと聞き流すことはできなかった。まだ幼い次男を抱き上げていた妻が顔色を悪くする。
「でも、ぶどう狩りって危ないのよ」
「大丈夫! 俺、強くなるから! それに、ぶどう狩りってかっこいいし!」
妻の手が、長男の頭を撫でる。ぶどう狩りがどれほどに危険なものか、そんな危険な場所に家族を送り出す気持ちがどういうものか、長男はまだ知らない。この子もいつか、それに気付くことになるだろう。そのときに、この子はどうするだろうか。
我が家には男の子が二人生まれてしまった。このままであれば、いずれどちらかがワイナリーを継いで、どちらかがぶどう狩りに参加することになるだろう。
なんだかまるで、ぶどう狩りに参加させるために二人目を産んだような、俺と妻の間にはそんな罪悪感があった。
戻ってきた男たちを出迎えるのは、いつだって不安と共にある。誰一人欠けることなく戻ってきたことを知って、安堵する。
ぶどう狩りに参加した男たちは、ぶどうの果汁を吸って重くなった装備を脱いで、体をよく洗い流す。怪我をしている者があれば、その手当をする。
その間に、残っていた者たちでぶどうを取り分ける。まずは土地の神様に捧げる分。ひどい傷の部分は間引いてその場で食べてしまう。子供達がわっと群がった。
残りは均等に分けて、ぶどう狩りに参加した家が持ち帰る。
どうやら今回は、見事なぶどうを幾房も仕留めたらしい。これだけ大きなぶどうを仕留めて、よく無事で帰ってきたと、安堵する。それに、ワイン作りには充分な量だ。
無理をしてなければ良いのだけれど、と掠めた心配は現実となっていた。弟は背中に怪我をしていた。
「後に残るような怪我じゃないよ。ちょっと、かすり傷程度だ」
弟はそう言って笑っていたけど、痛むのだろう、時折顔をしかめていた。
「お前一人に押し付けて……すまない」
「それを言ったら、俺はワイナリーを兄貴一人に押し付けてるんだ。そんな顔しないでよ」
弟が、困ったように笑う。
「けど、ワイナリーの仕事なんかより、ぶどう狩りはよっぽど危険だ」
「それでもさ、俺はワイナリーの仕事より、ぶどう狩りの方が性に合ってるんだよ。秋に何回かぶどう狩りに行くだけの俺を、こうやって住まわせてもらってさ」
「けど、お前がいなければ、ぶどう狩りに行くのは俺だった」
俺の言葉に、弟は大きな声をあげて笑った。
「やめてよ。兄貴はぶどう狩りなんか向いてないから。それこそ、大怪我して帰ってくるのがオチだ」
不意に、弟が真面目な顔をする。じっと、まっすぐに、俺の顔を見る。
「兄貴、こういうのは適材適所だ。兄貴がワイナリー、俺がぶどう狩り、俺たちはそれでうまくいってるんだ。だから、そんな顔をしないで欲しい」
俺の中の罪悪感を捕まえて、弟が握り潰す。いつもそうだ。けれど、広がり続けようとするぶどう畑のように、俺の中の罪悪感も新しく生まれては大きくなってゆくのだ。
「今年のぶどう畑はちょっと活発だから、きっともっと良いぶどうが獲れるよ」
「そうか……気を付けてな」
「兄貴も、とびっきりのワインを作ってよ。楽しみにしてるから」
「わかった」
こうやっていったい、何度見送れば良いのだろうか。何度無事な姿に安堵できるだろうか。
そしていずれ、自分の息子の姿も、こうやって見送ることになるのだ。俺はそれに耐えられるだろうか。
「今日のぶどうよ」
妻が、洗ったぶどうを一房、皿に盛ってやってきた。新鮮なぶどうのにおい。さっきも食べていたというのに、長男は飽きもせずにはしゃいだ声をあげた。
「まあとりあえずはさ、俺が獲ってきたぶどう、食べてよ」
「ああ、見事なぶどうだな」
「活発なだけあって、よく育ってるよ」
ぶどうを一粒つまんで、皮ごと口に放り込む。ぷつりと皮を歯で噛めば、中から果汁が溢れ出してくる。口の中いっぱいに広がるその酸味、甘さ。
危険と不安の元凶だというのに、本当にどうしてこんなに美味いのか。
ふと顔を上げれば、長男が大きなぶどうを頬張って笑っていた。妻の腕に抱かれた次男も、夢中でぶどうの果汁を口に含む。それを見て妻も笑っていた。
俺たちの生活はぶどう畑に脅かされているけれど、ぶどう畑に生かされてもいる。
罪悪感も不安もあるけれど、それでもぶどうの美味しさに、俺は弟と顔を見合わせて笑い合った。
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