【秋017】追憶電車(秋)

 電車に揺られている。


 紘美ひろみは靴を脱ぎ、電車のシートで膝を抱えている。


 このまま、どこへも辿り着きたくない。


 夫が死んだ。

 周りはみんな慰めてくれたけど、紘美はいっそ誰か私のことを引っぱたいてほしいと願っていた。

 夫の明弘は、紘美のストーカーに刺されて死んだのだ。


 誰が悪いとか、もうどうでもいい。紘美がいなければ夫は死ななかった。確かなのはそれだけだった。


 このままどこへも辿り着かなければ、何も考えないでいられるのに。


「お客さん、お客さん」


 そう声をかけられて、紘美は顔を上げる。車掌らしき男が通りすがりに、紘美の手元を指さしていた。

「お客さん、その切符じゃ……ここまでなんじゃない?」

 紘美は瞬きをし、「そうだったかしら」と切符を見る。自分がどこの駅からこの電車に乗り込んだのかもさっぱり覚えていない。車掌に軽く頭を下げ、とりあえず一旦降りてここがどこか確認することにした。


 電車から一歩降り立ち、紘美はきょとんとする。紅葉もみじだろうか、壮観なほど紅い木の葉が舞っている。ここはどこなのだろう。駅の中でないことだけは確かだが。


「結婚していただけないでしょうか」


 びくりと肩を震わせて、紘美は振り返る。そこには夫の明弘が立っており、頭を掻きながら「なーんて……」と紘美の顔を伺っていた。

「俺、タイミング間違えましたかね……?」

 慌てた様子の明弘が「や、やり直します……」と言っている。


 紘美は呆然としたまま、そんな明弘のことを見ていた。


 すうっと息を吸い込んだ明弘がその場に片膝をつき、「結婚してください!!」と声を張り上げている。通りすがりの人たちが何人か振り向いて見た。

「えーっとえっと……アッ!」と明弘が絶望の表情をする。「指輪忘れた……」と泣きそうに呟いた。

 呆れた。呆れ果てた。そしてはっきりと思い出した。そうだ、紘美たちの結婚の前にこのようなやり取りが確かにあったのだった。


 明弘の手を軽く叩いて、紘美は「しません」と言い放つ。「あなたと結婚は、しません」と。明弘が「ええっ」と仰天する。

「せめてプロポーズしてから言ってくれよ!」

「したじゃないの、今。二回も」

「今のはノーカン。もう一度チャンスくださいよぉ」

 しません、と紘美はもう一度きっぱり言って彼に背を向けた。


「もう私に関わらないで。さよなら」

「え? そんなに?」


 明弘を置いて歩く。

 紘美は未だ混乱していたが、『もしかしたら』と一縷の望みをかけていた。

 一体何が起こっているのか見当もつかないが、ここは確かに過去である。

 もしかしたら、このまま彼と別れることができれば、あの悲劇は起こらないかもしれないのだ。


 歩くたび、カサカサと音がする。長い道はところどころ赤と黄色に染まっていて綺麗だった。

「紘ちゃん」と呼ばれ、腕を掴まれる。風が吹いて、落ち葉が舞い上がった。

 暑がりの彼はワイシャツ一枚で、寒がりの紘美は薄手のコートを着ていた。そうだ、そんな季節だったな、としみじみ思い出す。


「俺のこと、嫌いになった?」

「……あなたのことなんか、ずっと嫌い」


 明弘は紘美のことをじっと見て、ふっと微笑んだ。唐突に「俺は君のことが大好きだ」と言い放つ。

「大好きだから、君の嘘と本当は、俺が一番わかる自信がある」

「……」

「明日もプロポーズする。ダメだったら明後日もプロポーズする」

「うっとおしい」

「なんとそれを繰り返している限り、俺は結婚しなくても毎日君に会えるというわけ」

「馬鹿なんじゃないの?」

 腕を振りほどく。明弘はあっさり離した。紘美はぷい、と顔を背けて「何も知らないくせに」と囁く。


「私といると不幸になるわ」

「えっ?」

「私、あなたのこと不幸にするの」

「何言ってるのかわからないな。君が俺を不幸にするったって、俺は君といればそれだけで幸せだぜ? 不幸になりようがないよな」


 カッとなって、紘美は「しぬのよ」と口走っていた。

「私といると死ぬのよ、あなた。私があなたのこと死なせてしまうの。気が狂ったと思う? 本当なのよ。私のそばにいないで」

 きょとんとした明弘が、少しだけ首を傾げて「それが不幸なの? 死ぬのが」と静かにそう尋ねた。


「刺されて死ぬのよ。痛い思いをして、苦しい思いをして死ぬのよ。私といると」

「気を付けるよ」

「気を付けるとかじゃなくて! 嘘だと思ってる?」

「言ったろ、君の嘘と本当は全部わかるつもりだ」


 それから彼は歩き出す。立ち止まった紘美にお構いなく歩きながら、彼は言った。「不幸だろうか、俺たちは」と。


「不幸だったろうか、俺たちの出会いは。

 不幸なんだろうか、俺たちがこれから歩く道は」


 明日もプロポーズするよ、と明弘は言う。紘美を置いて、歩いて行ってしまう。


 これが最後だとしたら。


 せっかく彼と会えたのに、本当にこんなことを言いたかったのだろうか。そんな風に考えて、紘美はずっと立ち止まっていた。

 たとえば『私のそばにいないで』なんて、そんな白々しい嘘を吐いて。本当は、本当に言いたかったのは、焼き付くほど焦がれた『ずっとそばにいて』だったのではないか。


 あきひろさん、と紘美は叫んでいた。彼が立ち止まり、振り向く。紘美はもう膝から崩れるようにして泣いていて、彼の顔がよく見えなかった。

「大好き。一生ずっと、愛してる」


 彼は笑った。何でもないように笑って、「俺も」と答える。

「一生限りの“愛してる”じゃ足りないから、足りない分は、何度だって巡り合おうよ」





 目を開ける。紘美の肩を叩いていた見知らぬ男性が、「お姉さん、大丈夫?」と声をかけていた。紘美は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を拭って、辺りを見渡す。駅の構内のようだ。

「お姉さん、ホームで倒れたもんだから……今駅員さん来るからね」

 すみません、と頭を下げる。「あんまり思い詰めちゃダメだよ」と男性は言って去っていった。


 寝不足続きだったのがよくなかったのだろうか。おかげで、随分と長い夢を見た。


 あなたが足りない、あなたと過ごす日々が足りない、こんなにも足りない。

 思えばそのように駄々をこねただけだった。彼から提示された答えは単純明快で、呆れるほど楽天的で――――だけれど私も馬鹿な女だから、そんな言葉を、心から信じたいと思ったのだ。

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