【秋015】馴れ初め
背を向けたまま板書を続ける教授。
講義を聞いている学生は殆ど居ない。もちろん私もその一人。
毎年同じ試験問題を続ける教授の講義は、確実に単位を取れるいわゆる楽勝科目だ。
講義を受ける必要も無いのだけれど、時々学生課が出席を取りに来るので仕方なくと言った感じ。
その教授が振り向くよりも高頻度で、横に座っている奴からメモ書きが回って来る。
『授業が暇すぎて、猫が寝込んだ』『落葉が凄すぎて馬が埋まった』『その馬を見て牛が笑ったウッシッシ』
変な落書きに笑えない駄洒落。そうかと思えば『昨日飲んだコーヒー』だと、ウィンナーがコーヒーに浸かった絵を描いて寄越す。
こいつはアイウエオ順に分けられた大学のクラスで、苗字が一緒だった為に仲良くなった奴だ。
同じ科目を受講するので一緒に居る事が多いけれど、友人のひとりにすぎない。
入学して独り暮らしを始めて半年。
夏休みが終わり後期の授業が始まってからも、相変わらず適当に講義をこなすだけの毎日が続いている。
高校までとは全く違う、自由で自己責任の世界……。
仲良くなったサークルの子のお誘いでドライブに行く事に。
大勢来ると聞いていたけれど、当日はその子の彼氏とその友人しかいなかった。
サークルの子は彼氏の車で、私は仕方なく初めて会った男性の車に乗る事に。
適当にドライブをしながら過ごし。夕陽が綺麗な場所に行くという事で、海岸線の道を延々と走っていた時だった。
海とは反対側に建っているラブホテルの駐車場にいきなり車を乗り入れたのだ。
「なに?」
「ここの部屋からの夕日が綺麗なのよ。行こう行こう!」
「冗談でしょ」
「大丈夫だって」
今日初めて会った野郎が、いきなりラブホに連れ込もうとしているのだ。冗談じゃない。馬鹿にするにも程がある。
「早く車を外に出して」
「無理ー。エンジンがオーバーヒートしてるから、明日の朝まで動かない」
そんな訳あるかボケと思いながら、ドアを開けて外に出る。
野郎は嬉しそうに降りて来た。
「よっし、行こう!」
「失礼します」
「はぁ?」
「帰ります」
「何だそれ? 帰れるもんなら帰れば」
野郎がニヤケながら私を見ていた。
殆ど建物が無い海岸線の道を長時間走って来た。歩いて帰れる距離では無いのを見越して連れ込んだのだ。
それでも、こんな野郎の餌食になるのが嫌でラブホの外に出た。
背中に罵声を浴びせられながら車で来た道を歩いて戻る。
一時間程歩いた頃だろうか。急に雨が降り出し、風も強くなって来た。
今日はどん曇りだったのを思い出し。夕日を見ようと言われて、ホイホイ付いて来た自分に腹が立つ。
そんな私の想いなど関係なく。陽が落ちて周りは闇に包まれ、背中を押される程の風が吹き始める。
焦っていると、道沿いに一軒の喫茶店が目に入り急いで駆け込んだ。
コーヒーの香りが心地よい店内に、初老の男性がカウンターの向こう側でパイプの煙をくゆらせている。絵にかいたような喫茶店の雰囲気だ。
マスターはびしょ濡れの私を見て、乾いたタオルを持って来てくれた。
お礼を述べつつブレンドコーヒーを頼み、窓に打ち付ける雨が街灯の明かりを歪ませるのを呆然と眺めていた。
『……中心気圧は980ミリバール。間もなく……』
店内に流れていたFM局の音楽が止み、ニュースを読み上げる声が聞こえていた。
聞き流していたが、ある事に気が付いて、慌ててマスターに声を掛けた。
「台風来てるんですか?」
「ああ、もう直ぐ上陸するみたいだね。今夜は嵐かな」
「えー! どうしよう」
最近、天気の事など気にしない生活をしていて、台風の情報など全く知らなかった。
雨が止んだら歩こうと思っていたけれど、止むどころの話ではない。
「タクシー呼んで頂けますか? 最寄りの駅まで行きたいのですが」
「この天気だと、ここまで来てくれないかも知れないね。一応聞いて見るけれど」
マスターは店内にあるピンク電話でタクシー会社に電話を掛けてくれた。
でも、やはり断られてしまった様だ。
私が困り果てていると、こんな所をひとりで歩いていた事情を聴かれ、正直に話した。
マスターは酷い野郎だと笑ってくれた。
そして、嫌じゃ無ければ店内に泊まる事を薦めてくれたのだ。
私にとっては、嫌どころか願ったり叶ったりだ。
風雨が強まるなか、マスターが二階の自宅に戻るまで色々と話をして過ごした。
二階に上がる前に、お腹が空いただろうと食事を作ってくれる事になり、食後の飲み物を何が良いか聞かれた。
ふと、馬鹿な絵を思い出し。ウィンナーがコーヒーに浸かったのが良いと冗談で伝えると、『お好みでどうぞ』と書かれたメモと供に、皿に置かれたウィンナーとカップに生クリームが盛ってあった。
それで思い出した訳では無いけれど。翌日の講義に間に合わないので、奴に代返をお願いする為に電話を掛けた。
寮の電話口に呼び出して貰い、簡単に事情を話した後は、下らない馬鹿話をして過ごした。
誰も居ない薄暗い店内ではやる事が無かったので助かる。
持ち合わせの小銭が尽きてしまった所で電話を切り上げ、ソファーで横になり就寝。
翌朝、マスターに重々お礼を述べて外に出ると、爽やかな秋空が広がっていた。
思わず背伸びをして、店の階段を降りる。
すると、階段を降りた所に、ヘルメットを抱えた奴が立っていた。
「迎えに来たぜ!」
「はあ、授業は?」
「代返依頼済み」
「はぁ。でも、何でわざわざこんな遠くまで?」
「俺達は台風いっかだから!」
「なにそれ」
「苗字も一緒だし」
「あんた、それ漢字を間違えて覚えてない?」
「うん?」
「家の『一家』じゃなくて、過ぎる方の『一過』だからね」
「こまけー事は気にするな。帰るケロ! カエルと帰るケロ!」
「はいはい……」
『……強い台風9号の中心気圧は950ヘクトパスカル。週明けには……』
店内に流れていたFM局の音楽がニュースに変わった。
「ママ、僕はクリームソーダ!」
「あたしも!」
「よし、パパはウィンナーが入ったコーヒーだ!」
「ええっ! ウィンナーが入っているの?」
「そうだよー」
家族四人で久しぶりのドライブ。
相変わらず下らない事を言う夫の注文を聞いて、お爺ちゃんになったマスターは口元を綻ばせている。
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