【春010】誰が袖
深い記憶の奥底で、眠り続けている感情の名前を、まだきみは知らない。
幼少期のきみが熱を上げていたのは、祖父から譲り受けた顕微鏡だった。昭和初期に造られた年代物のそれは、決して性能はよくなかったけれど、きみを現実世界から遠く引き離すのには充分だった。長かった三年生が終わろうとする頃、小学校の裏手の神社には梅の花が咲き誇っていた。一片、境内に落ちていた花弁をそっと拾い上げたきみは、いそいそと自室に持ち帰り、その細部に魅入った。静かな夜。部屋の窓からは月の光が差し込んでいた。真っ白い梅の花びらは、その淡い光の中に溶け込むかのようだった。しかし、それを顕微鏡で覗き込んでみると、不思議なほどに赤黒い花粉がギュッと寄り集まっているのが見える。さらにその奥を凝視してゆくと、花粉の中の奇妙な迷路、細胞と細胞の複雑な網目がきみの心を引きつける。きみは、その奥に分け入っていく。無限に続く夜。部屋の外では、父親と母親の喚く声が響きわたっていた。幼い妹はその間で錯乱していた。しかし、きみの心はただひたすらに細胞の迷路の中を彷徨い歩く。それは果敢な冒険で、壁の向こうにはモンスターが、きみに倒されるべきモンスターが待ち構えているのだった。激しい物音。母が、父に家具を投げつけたようだ。家中をつんざく妹の悲鳴は、しかし、きみには届かない。静かな静かな夜。きみは、ただ黙々と顕微鏡を覗き込んでいた。
いつしか家族はバラバラになり、きみは施設に預けられた。父親にも母親にも興味のなかったきみは、それを抵抗なく受け入れた。施設のひとは煩かった。そこにはおそらく愛情があった。周りにいる大人たちは、何かときみの世話を焼いた。よかれと思って、あれやこれやと助言した。すべて要らなかった。きみが欲していたのは、ただ、顕微鏡だけ。しかしそれは与えられなかった。祖父の顕微鏡は、呆気なく売られてしまっていた。まだ小学生だったきみには、自分の力では顕微鏡を入手する術がなかった。だから眠り続けた。眠っているあいだ、きみはあの迷路の夢を見た。花の中にある迷路。細胞壁の間を駆け抜け、いつ終わるとも知れない冒険の旅へ。夢ではいつも無敵だった。そこには猫の魔物がいた。犬の妖怪がいた。狐の神がいた。熊の魔王がいた。みな調伏し、従えたところで、夢は醒める。目的は敵を倒すことではないと、きみは気づいていた。迷路の最深部には何かが待っているはずなのだ。しかし、それが何かは分からなかった。
中学生になり、きみの身体は俄に大きくなり始めた。すると、それまできみを虐げていた同級生たちは、きみを警戒するようになった。きみは常に無関心だった。同級生がきみに手酷い嫌がらせをしようと、しまいと、どちらでも構わなかった。上履きを隠されたところで、履かなければいいだけだ。水をかけられたところで、乾かせばいいだけだ。そうやって超然としていたきみは、小さな頃にはただの根暗な奴と思われていたけれど、この頃には空恐ろしい男として畏怖されるようになった。夢は見なくなっていた。顕微鏡への関心も消えていた。ただ虚しい気持ちだけが漠然とあった。
高校生になり、恋人ができたとき、初めて何かが違うと感じた。同級生の女子から告白されることは少なくなかったが、きみが交際を承諾したのは、下級生の、見たこともない少女だった。黒い前髪で目を隠し、きみを見るともなく愛を告げた少女。きみは察した。この子もまた虐げられている。おそらくこの告白は苛めの一環。他者から強要されたものなのだ。きみは少女に対して、誰から強いられたのかを問うた。少女は答えなかった。彼女も無関心と惰性を武器にして生き延びてきたのだろう。だからきみも無関心と惰性をもって、この交際を受け入れた。それはきみたちが生きるために選び取ったただ一つの方法だった。きみたちは、高校生活を何となく共に過ごした。きみが卒業式を迎え、この少女とももう二度と会うことはないだろうと思い、ふと前髪の奥の瞳を覗き込んだときに、異変が起きた。何かが違う。何かを間違い続けている。少女の瞳の奥、瞳孔の奥の奥にきみは魅入った。それはさながら迷路だった。あの、梅の花弁のように。この迷路は踏破しなければならない。その奥にある何かと対峙しなければならない。きみは一粒、涙をこぼした。少女はきみの涙を左手の中指で掬い取り、小首を傾げた。梅の花が少女の肩に舞い落ちた。きみたちは梅の木のそばにいたのだ。
きみは工場で働き始めた。最初の給料で顕微鏡を買った。翌春になって梅の花を覗き込んだけれど、そこに迷路はなかった。しかし夢を見た。固く閉ざされた迷路の入り口。あの下級生の少女が立っていた。翌朝、きみは少女に会いに行った。きみは告白し、きみたちは結婚した。きみはしょっちゅう少女の瞳を覗き込んで、彼女を困らせた。翌々年には子どもが生まれた。その子どもを抱き上げたとき、きみは迷路の最後の扉の鍵を見つけた。それは、香りだった。それは、とても懐かしい香りだった。きみが遠く遠く置き去りにしてきたもの。その香りだった。
きみはすぐさま施設のひとに連絡を取った。彼らは親身になって相談に乗ってくれた。春の終わり、きみはあの小学校へと向かう。なかなか勇気が持てなくて、妻と子どもにもついてきてもらう。校門の前で家族一緒に佇んでいるところに……
わたしがそっと並びかける。きみは驚いたようだ。わたしに会いにきたくせに。わたしがこの学校で教育実習を受けていることを知って、こっそり会いにきたんでしょう。お生憎様、わたしは片時もきみのことを忘れていなかったんだよ。きみが人生という迷路の奥底に封印したもの。それが「守りたい」という感情であったことを、幼いとき、優しくあやしてもらっていたわたしは、知っている。
でも兄さん。あえて「きみ」と呼ばせてもらう。きみが守るべきは、わたしじゃない。
きみによく似た子どもがわたしに笑いかけてくれる。わたしも笑顔を返す。迷路の先に開けているのは、こうした光景であるべきだ。とうの昔に散ったはずの梅の花が、今も香るのはこのためなんだ。
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