【春009】春の骨をとむらう【性描写あり/ホラー要素あり】

 万朶ばんだの桜の根かたで娘をみても、視線をあわせてはならんと――その昔、祖父にいわれた。咲き誇る桜の根かたには死が、埋まっているのだと。



 私は炭焼をしている。祖父から父に、父から私に引継がれてきた職だ。人郷離れた小屋で日がな一日炭を焼き、時々郷に降りて、炭を売りにいく。

 朝一に郷へと降りても、帰りは大抵日が暮れる。


 郷と小屋を結ぶ峠の途上には大桜がある。千年も昔から此処に根をおろしているというだけあって、隆々たる幹のうねりからは悠久の刻を感じられた。夏は葉が絶えず青嵐のように騒めき、秋には目映まばゆいほどの錦を綾なし、冬となれば幾重にも分かれた枝さきに満天の星を繁らせる。

 だが春だけは行きも帰りも視線をふせて通り過ぎるため、桜の咲いているところをみたことはついぞなかった。


 昔は祖父の言っていたことをさほど熱心には信じてはいなかった。

 だが私が十五になったある春。

 父が死んだのだ。

 郷にいったきり帰らなかった。捜せど捜せど何処にもおらず、桜の散り終わる季節になって、あの大桜の根かたで息絶えているところを祖父が見つけた。だからいったのに……と祖父が悔しそうにつぶやいたのを憶えている。

 それきり、私は春に桜の側を通り掛かるときには頭をさげ、なるべく荷車の車輪と轍だけを睨んで進むことにしていた。


 されどその晩は、浮かれていた。

 郷の庄屋さんが私の焼いた炭をいたく気にいって納屋にあるだけ全部欲しいといってくださったのだ。これで暫くは食い扶持ぶちにこまることもない。冬の終わりに倒れた母さんをお医者様に診せてやれる。

 私は些か胸を張って、峠を進んでいた。例の大桜に差し掛かったことに気づきもせずに。

 日の暮れた峠道のさきが、ぽうと明るんでいた。誘われるように林を抜けたのがさきか、満々と咲き誇る桜が視界一面に拡がった。

 息をのむ。

 眩むほどに白い桜にこころを奪われた、のではなく――私の視線は桜吹雪のなかで舞い続けるひとりの娘にひき寄せられていた。


 春がみせた夢のように綺麗な娘だった。年の頃は十七程か。純白の掛下かけしたに品のよい花緑青はなろくしょうに古代紫のぼかしが施された色打掛を纏い、紫の帯を締めていた。意匠はいずれも桜だ。絹糸のような髪だけが結われもせず風に遊んでいる。

 華やかな友禅の袖がひらひらと蝶のごとく。細い脚が着物のすそからわずかに覗いた。桜を欺くほどに白い踝だった。それはともすれば、骨のようだった。雨風に晒され続け、透きとおるほどに漂白された骨だ。

 彼女の舞は静かだった。何処か鎮魂めいた想いを感じ、続けて胸をひきしぼられるような孤独感が押し寄せてきた。

 気がつけば、私は涙をこぼしていた。

 娘が緩やかに振りかえる。娘までは遠い。それなのに、視線が重なったのがわかった。


 娘は微笑み、月のひかりを指に絡めるように袖を振った。

 ああ、誘われているのだ。

 私は蹌踉よろめきながら、桜のもとにむかった。


「そなた、なにゆえに涙する」


 娘は莟が綻ぶように唇を割り、訊ねてきた。

 私は解らないとかぶりを振る。ただ、あなたが、哀しそうだったからとつぶやけば、彼女はふわりと微笑んだ。


「そうか……哀しそうかや。いたずらにときばかりを重ねようと、死した後の哀しみは癒えぬもの……忘るるは生者の権よ。死者はただ、忘られゆくのみ、か」


 愁いをにじませて、彼女は睫毛をふせた。


「そなた、昔話を聴いてはくれまいか」

 

 聴くだけでよいのならば。私が頷けば、娘は詠うように語りだした。


「この地にはかつて、城があり、ひとりの姫がおった。古墨こぼくったが如き御髪おぐしに紋白蝶の微睡まどろみを想わせる肌。衆人は囁いた。姫が微笑めば、如何なる華でも羞じらい、しぼむ――とな。

 いつしか、かのじょは桜の姫御と称されるようになった」


 言いえて妙だと私は思った。

 桜の根かたでは草は育たない。桜の葉から滴る毒が、他の草花を侵すからだ。


「ひと度でも桜の姫御と袖振りおうた男は、憑かれでもしたようにかのじょを欲した。駕篭に乗った姫を見掛けた農夫はそれきり食が喉を通らずにやせ衰え、庭師は姫を手籠めにしようと襲いかかったときに転び、竹で喉を突いて息絶えた。

 あるとき、豪商が金銀に珊瑚に翡翠とあらんかぎりの財をもって、妻問ひにきた。またある土豪は姫を妻に迎えられるのならば、先祖から承継した土地をすべて差しだすと誓った。

 だが姫の男親ちちおやはいずれもくびを縦には振らなんだ。

 

 男親は姫をたいそう可愛がっておった。桜の枝を手折ったのも――男親ちちだった。女親ははおやは娘を怨み、毒殺しようと謀ったが……毒に気づいた腹違いの兄に斬り殺された。兄もまた姫を欲して男親を殺そうとし、男親にかえりうちにされた。

 その後も姫を巡っては夥しい血が流された。

 姫は嘆き、ついにある春の晩、桜の根かたで命を絶った」


 そこまで語ってから、娘はほ……と細い息をこぼした。晩霜のような睫毛をしばたかせて。


「奇妙なものよ。骨になれば、誰も妾のことなど欲しがらぬ」


 桜の根かたにはまだ、彼女の骨が眠っているのだろうか。私の愁いを知ってか知らずか、桜吹雪に腕を拡げ、娘は大桜をふり仰ぐ。


「されども、こうして咲き誇る桜が"境"をぼかす春の宵は――妾の幻に誘われた男が寄ってくる。ひと度でも欲望に憑りつかれれば、この境から帰れず、桜に命を吸われ息絶える……だが、そなたは帰れるはず」


 帰れと娘はいった。


つ者がおるのだろう」


 おまえさんは帰らないのかと私はいった。

 

 娘はただ笑った。疲れたように。


「轍を踏むまで振りかえるでなきぞ」


 私は帰り道に向き、歩きだす。はてこんなに遠かっただろうかと想うほどに歩を進め続け、やっと私は轍に抜けた。荷車を確かめてから、振りむけば後にはただ大桜が月に潤むように咲き誇っているばかりだった。


…………

……


 春が終わって、私は桜の根かたを訪れた。

 そこには時を感じさせないほどに白い骨が硬い木の根を枕に横たわっていた。土を掘り、娘の骨を埋葬する。せめて雨に晒されぬように、風に凍えぬように。誰の視線にも犯されぬように。

 私のしたことが娘の慰めになったかは解らない。ただ春がめぐっても、大桜は咲かなくなった。娘が舞うこともない。

 だが、それでよいのだ。咲かぬ桜ならば、二度とは誰かに手折られることもないのだから。

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