【秋007】帰る
燕はとうの昔に帰り、そろそろ鶴が来ようとする頃……
「ケン、いくぞぉっ」
久しぶりのキャッチボールに胸が躍らなかったといえば嘘になる。ケンとこうして公園に来たのはいつぶりだろうか。
「次は変化球でいいぜ。捕れなかったらジュースを奢ってやるよ」
おれの渾身のストレートを軽々と受けとめたケンは、親指をくいくいっと横に振って、ベンチ脇の自動販売機を指し示した。その背後で柿紅葉が揺れている。おれはケンの安い挑発に乗っかって、あいつの知らない球種を投げた。
「うぉっ、なんだこれ」
まんまと捕球し損なったケンは、てんてんと転がるボールを追いかけていく。
「スイーパーっていうんだ。スライダーの一種なんだけど、ツーシームをグリップするだけで大幅に変化するんだぜ」
「聞いたこともねーな……」
同じように公園で遊んでいた男子がボールを拾って、ケンに投げてくれた。その男子はおれに向かって、
「すげー、兄ちゃん、どうやって投げんのそのボール!」
思いがけず「兄ちゃん」と呼ばれたことが嬉しくて、まんまとおれは少年の臨時コーチとなった。ケンはそんなおれに苦笑いを浮かべて、自動販売機に歩いていった。
……
「ぷはー、体力落ちてんなぁ」
「そりゃそうだろ」
奢ってもらったコーラを飲みながら愚痴をこぼすと、ケンは白々とそう応えた。少年がさっそく変化球を練習し始めたのを見守りながら、二人してぼんやりとベンチに座ることとする。
「短い間に色々と変わっちまったけど、子どもが公園で遊んでるのを見るのは良いもんだよな」
「ジジくさっ」
ケンの言い草に思わず笑ってしまう。
「アキラ」
「ん?」
気づくと、ケンがおれのことを真剣に見つめていた。
「ランちゃんがこの町に戻ってきているらしい」
「ランちゃん……?」
一瞬、誰のことかわからなかった。しかしその直後にはまるで走馬燈のようにランとの思い出が脳裏を駆け巡った。
生まれたときから一緒にいたラン。同い年、親同士が友人で、どこに行くにも一緒だった。
幼稚園でガキ大将からちょっかいをかけられていたランを守ったのはおれだった。小学生の頃、初めての遠足で迷子になったおれを見つけたのはランだった。中学生の頃、はじめてランを異性として意識した。ランの方も同じだったように思う。ぎくしゃくとした関係のまま卒業式を迎えた。
そして、ランは家族と一緒に他の町に引っ越していった。まさかランとの関係がこれで途絶えるとは思っていなかったが、実際にはそうなった。おれの親とランの親はどうも仲違いしたらしく、その後の動向は杳として知れなかった。
「おい、まさかランちゃんのこと忘れたわけじゃないよな」
「あ、ああ、もちろん」
「驚きだよなぁ。もうここには実家もないってのに、わざわざ帰ってきたんだ。何でだと思う?」
「さぁ……」
ケンが意味深な眼差しを投げかけてくる。だが、おれにもわからない。今更、どうして?
「あっ、ランちゃーん!」
変化球の練習をしていた少年が、公園の入口に向かって手を振った。驚いてそちらを振り向くと、確かに彼女がいた。少し肌寒いこの季節に、サフラン色のカーディガンを羽織って。長い髪を後ろに結って。あの頃と変わらない笑顔で。少年を見つめていた。
「ラン……」
思わずこぼれた呟きに、ランはおれと同じくらい驚いていた。
「アキラ?」
そう、お互い一目でわかったんだ。
……
ケンがらしくもなく気を利かせ、ランにベンチを譲った。いまは少年とキャッチボールに勤しんでいる。大した体力だ。
「戻ってきたんだってな。全然知らなかった」
「うん、ごめんね、連絡できなくて」
「……」
聞きたいことはたくさんあるのに、言葉にならなかった。まるで迷子だ。
「おいちゃん、元気か」
「この前、亡くなったよ」
「そっか……」
「近日中にアキラのところに挨拶に伺うつもりだった。お金、きちんと返さないといけないから」
「金?」
「もしかして、おじさんから何も聞いてないの?」
親父からは何も聞いてない。
「うちの父親がおじさんからお金を借りたまま破産しちゃったの。ほとんど計画倒産で、詐欺みたいなものだったんだ。そのまま夜逃げするようにこの町から逃げ出してしまった……」
たしかにうちの工場は、ランがいなくなった頃からしばらくは火の車だった。まさかそんな事情があったなんて。
「おじさんは、元気?」
「おれの親父もずいぶん前に死んだよ。工場はおれが継いだ」
「そう……」
ランはおれに深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。これほど長いあいだ不義理をしてしまって、心から申し訳なく思っています」
「やめてくれ!」
おれはランの肩を掴んだ。そして、不用意に女性に触ってしまったことに気づいてビクリとした。ランの頬が少し赤らんでいることに気づいて、おれは手を離した。
「ご、ごめん」
「謝るのはわたしの方。……わたし、ずっと引け目に感じていた。アキラに会わせる顔がないと思っていた」
「おれは、突然お前に会えなくなって寂しかった……」
自然と本音が口をついて出た。
「わたしも寂しかった」
「おれはお前がいなくなってからも、情けないくらいお前の面影を探してた」
「わたしは……」
「この町のあらゆるところにお前との思い出がこびりついてるからさ。本物のお前の面影と出逢ったときに、すぐには気づけなかったんだ」
「……」
「あの子、お前とどういう関係なんだ?」
ケンとキャッチボールをしている少年。ケンはいまやクタクタで、元気な男の子に振り回されている。
「わたしの孫だよ」
ランが少年に柔らかい眼差しを向けていた。秋の木洩れ日がランと少年を祝福しているように思えた。
「夫ももう亡くなってしまって。終の棲家はどこがいいかなって考えたときに、この町のことが頭から離れなくなったんだ」
それが理由。彼女がこの町に戻ってきた理由。おれは、彼女の帰る場所を守れたことに、奇妙なほど安堵していた。
日が暮れ始め、ひぐらしの鳴く声が地面に染み渡る。秋が深まり、趣を増すのはこれからだろう。
「おーい、そろそろ帰ろうぜ」
ケンが遊び疲れた少年の手を引いて戻ってきた。
「ああ、そうだな。行こう」
おれも、ランに手を差し伸べる。
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