【冬019】追憶電車(冬)
電車に揺られている。
父の命日に、実家に帰った翌朝だった。どうしても帰って来いと言う母と、有休をとろうとすればすかさず皮肉を言ってくる上司の間で、疲れ果てながら何とか勝ち取った一日の休みが昨日。実家に一泊し、そのまま職場へ直行という流れである。
少しもゆっくりできなかった。やっぱり帰らなければよかったな、と思う。そもそも雛は父を特別慕ってはいなかった。
生前の父は、厳しい人だった。口を開けばお説教しか出てこないような人だった。
『お父さんはあんたのことを本当に可愛がっていたのに』と言われたって、そりゃ後からなら何とでも言えるだろう。
うとうとしながら、仕事のことを考える。
本気で辞めようかと思うこともあるが、そうすると他の同僚に迷惑がかかる。とにかく私は、誰にも迷惑をかけないように生きていきたいだけ――――
「お客さん」
肩を叩かれ、雛は飛び起きる。別に何も言われていないにもかかわらず「すみません」と言い、駅名も確認せず電車を飛び降りた。
そうして────突如として現れた美しい雪化粧の街並みに、雛は目を見開く。
活気あふれる通りには、重そうな雪が降り積もっている。
慌てて歩き出し、見事に足を滑らせる。悲鳴を上げた瞬間、腕を掴まれて引っぱられた。
「気をつけなさい」
父の声だった。そこに、父が立っていた
雛はぽかんとしてしまって、「お父さん……?」と尋ねた。父は瞬きをして、怪訝な顔をする。
「えっと……ゆ、夢かこれ」
「熱でもあるんじゃないだろうな。こんな年の瀬に」
そうか、夢か。そんな風に納得して、雛は慎重に歩き出した。
よく見ると、雛は高校の制服の上に分厚いコートとマフラーを巻いている。
そういえばこんなこともあった気がする。雛の高校の終業式の日、荷物が多いので父が迎えに来てくれたのだ。いつもはそういう時母が来るものだが、なぜかその時は父だった。
何も言わず歩いて行く。雪の上に、雛と父の足跡が出来ていく。
「……どうして来たの、お父さん」と尋ねてみた。父は静かに「休みが取れたからだ」と答えた。何だか答えになってないな、と雛は思う。
「珍しいね、お父さんが休みを取るなんて」
「珍しいのは父さんの休みをあっさり承認した会社だ」
なるほど。今となってはすっかり社会人が板についてしまった雛は、それに対して深く納得した。
案外この人も今の雛と同じで、仕方なくいつも家を離れていたのかもしれないなとふと考える。改めて隣から見た父の姿は、どことなく疲れているように見えた。
「やっぱり、熱でもあるんじゃないか」と父は言う。
「え?」
「お前から僕に話を振って来たことなんて、今までなかったものだから」
「……話す時間がなかっただけじゃん」
「そうかもしれない。でも……そうだな、それでも今日のお前は何か悩んでいるね?」
ハッとする。父は雛を見て、「父さん相手じゃ喋れないか?」と問いかけた。
雛は少し考えて、「嫌なことばかりだから」と素直に口を開く。それは相手が父だからというよりは、これが夢で、相手のいない独り言のようなものだと確信していたからだろう。
「上手くいかないことばかりで、毎日嫌なことを言われて、それでも私より頑張ってる人もいるからと思って仕方なくやってるけど、いつか逃げ出しちゃいたいと思ってる」
ふわふわの雪は踏みしめると固まって、小気味のよい音を立てた。
そうか、と父は言う。
「じゃあ、逃げなさい」
都合のいい夢だな、と雛は思った。本当の父なら、きっとそんなことは言わない。
「でも私が逃げたら、他の人の迷惑になるんだよ」
「関係ない。逃げなさい」
話半分に聞きながら、雛はコートのポケットに手を入れる。
「お父さんはさ、昔から私に『人に迷惑をかけないようにしなさい』って言ったでしょ。今更そんなこと言われたって困るよ」
「ああ、そうだなぁ……」
父も困ったようにして、「うーん」と顎に手を当てた。
「正直に言うと僕は、お前が幸せなら他のことはどうでもいいんだ」
立ち止まって、雛は父の顔をまじまじと見る。父は照れくさそうに目を細めていた。
「人に優しくしなさいとか、迷惑をかけないようにしなさいとか、勉強をしなさいとか、危ないことはやめなさいとか、そういうのは全部……そういう積み重ねがいつかお前を幸せにすると思ったから言った。だけどお前がそれで幸せになれないなら、別に人に優しくしなくていいし、ありったけ人に迷惑をかければいい。僕はお前が幸せになるなら、他の人がどうなろうとどうでもいい」
「……嘘だぁ」
「怠惰は回りまわって自分を不幸にするからいけない。そして努力は、お前が幸せになれると思った場所でしなさい」
なぜか焦ってしまい、雛は足を踏み出す。雪で滑って、また父に支えられた。それから父は、今度は雛の手をしっかり掴んで歩き出す。
「ところで、お前に毎日嫌なことを言ってくるやつというのはどこの誰なんだ。父さんがガツンと言ってやる」
そう、父は言った。雛の顔も見ないままで。
────昔。小学生の頃だったと思う。いつも雛に意地悪ばかりする男子がいて、父が『話をつけてくる』と言い、
そんなことを、ふと思い出した。
雪がしきりに降っている。時が止まったようにゆっくりと落ちていく。
父に手を引かれながら歩いた。目の前がにじんで、何度も目をこすって、「お父さん」と呟く。
「お父さん、なんで今そばにいてくれないの」
雪が降り積もる。こんこんと降り積もる。
父は振り向いて笑いながら、「ずっといるよ」と言った。
電車の中で、アナウンスが聞こえる。雛が降りるべき駅の名前を告げている。
ドアが開き、雛は立ち上がった。
人混みに流されながら、雛は目をこする。いくら拭っても涙が止まらない。歩きながら嗚咽を漏らして、心なしか周囲と距離ができていた。
あんなにも誰かに、大切にされていた。
そんな強烈な記憶と、実感。それを抱えながら歩いていく。
今日も休みます、と職場に電話をかける。両手を擦り合わせて空を見た。寒いはずである。駅の外では音もしないほどゆっくりと、やわらかそうに重そうに、白い雪が降っていた。
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