【冬018】冬ながら空より花の散りくるは

 高校三年の冬、クラスにはぴりぴりした空気があった。

 必要な授業はほとんど終わり、自習時間がほとんどになった。みんなそれぞれの受験先に合わせた問題集を解いていた。

 推薦で進学先が決まった生徒はどこか居心地が悪そうに、読書なんかをしていた。

 空席も目立つようになる。受験の生徒もいるし、単位に必要な出席数があるなら、わざわざ学校に来なくても家で勉強していれば良い。わざわざ人が集まるところに飛び込んで、なんとかウィルスでももらってくるようなことにでもなれば、受験に関わる。

 そんな調子だったから、二月のある日、古典の先生は自習用のプリントを配ったけれど、それを真面目に解いている生徒はほとんどいなかった。先生は気にした様子もなく、「質問があれば来てください」と言って、教卓の椅子に座って本を読んでいた。

 穏やかな年配の先生だった。声を荒げるのを見たことがない。淡々と授業をして、時間になったら淡々と終える。そんな先生だった。

 だからみんな、言葉を選ばずに言ってしまえば、その先生をなめてかかっているところがあった。受験期に入る前から、その先生の授業では、みんな好き勝手なことをやっていたのだ。

 先生は時折寂しそうな顔をするくらいで、特に何も言わずに淡々と授業を進めていた。だからみんな、そういうものだと思っていた。

 そして、自習時間がだいぶ過ぎた頃になって、ふと、先生が呟いた。

「雪だ」

 その声に、何人かの生徒が顔を上げて窓の外を見た。俺もその一人だった。ちらちらと、強い風が吹けばばらばらになって飛んでいってしまいそうなほどに細かな雪が、舞い落ちていた。

 誰も何も言わずに、またすぐに手元に視線を落とした。

 けれど、先生は立ち上がると、いつものように淡々とした声で話し始めた。

「そういえば、古今和歌集だったかな、こんな歌があってね。冬ながら、空より花の散りくるは」

 そのとき、誰かが「それって受験に関係ありますか?」と尖った声をあげた。

 先生は言葉を止めて、瞬きをした。それから、教室の中を見回した。

「受験に関係ない知識は不要なものかな?」

 俺は、その問いに答える言葉を持っていなかった。どうして良いかわからなくて、俯いてしまった。

「今は要りません」

 また、生徒の誰かが言った。

「そうか、要らないか」

 先生は寂しそうな声でそう言った。それきり、また静かな教室に戻った。

 そっと顔を上げれば、先生はまた椅子に座って本を読んでいた。窓の外には、まだ雪がちらちらと降っていた。地面に落ちればすぐに消えてしまう、何も残さない、残すことのない雪が。

 俺はスマホを取り出して、画面をタップした。検索欄に言葉を入れる。

 ──古今和歌集 冬ながら

 検索結果に出てきた解説ページを適当に選んで開く。

 ──冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあらむ

 ながらは接続助詞、逆接仮定で「〜であるのに」や「〜のに」「〜けれども」。それから散りくるはカ行変格活用の動詞で「散り来」の連体形。

 そんな文法の解説を読んでいるうちに、またふと窓の外を見た。ああ、このちらちらと落ちてくる雪が「花」なのか。そしてその気付きは、雲の向こうにあるかもしれない春を、俺に想像させた。

 ──雲のあなたは春にやあるらむ

 考え事は、チャイムの音に邪魔をされた。先生がいつものように静かに立ち上がると、日直の「起立、礼」という声に合わせて、みんなで形ばかりの礼をする。

 そして先生は、いつものように淡々と、教室を出ていってしまった。

 窓の外には、ちらちらと、儚く消えてゆく雪が降っている。まるで花びらの幻のように。春の幻のように。

 これは花びらじゃない。ましてや春でもない。それでも、この空の向こう側に春があるのだと思えば、ぴりぴりとした空気に緊張して硬直していた心が少し軽くなった。

 それで俺は、先生が言おうとしていたことが、なんだかわかったような気がしたのだった。

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