【秋019】朱鷺子28号


 令和XX年 台風第28号に関する情報 第1報 20XX年10月25日04時44分 気象庁発表


『フィリピン東方沖で熱帯低気圧の最大風速が17.2m/sに達し、台風第28号(フィリピン名:トキコ Tokiko)が発生しました。非常に強い大型台風に発達すると予測されます』




 台風28号は直進した。偏西風を無視するかのように真っ直ぐ北へ進路を向けて、猛烈な勢力を保ったまま小笠原諸島を通過。関東首都圏へ上陸するコースを非常にゆっくりとした速度で進んでいた。

 中心付近の最大風速は65m/s、瞬間最大風速は90m/sに達し、暴風域半径は160kmにおよぶ猛烈な台風である。




 男は錯乱していた。いや、狂喜していた、と言うべきか。

 朱鷺子トキコが帰ってくる。

 男の顔は恐怖に慄き、その裏で歓喜に満ちていた。相反する感情は反発するように渦を巻き、形のない凶器と化して無残に心を抉り削る。違う。むしろ千切り取ってくれ。この薄汚れた心で良ければ喜んで差し出そう。

 男は狂喜していた。


「……朱鷺子」


 かつて妻と呼んだ女。この世で唯一人愛した女。そして、この手で殺した女。


「朱鷺子」


 蕩けるほどに愛していたのに。溶けるほど愛してくれている、と思っていたのに。すべては愛し合うことで成り立っていたのだ。危ういバランスで揺らぐ天秤は最悪な裏切りで瓦解した。

 朱鷺子が愛していたのは台風だった。


「朱鷺子……!」


 生まれ変われるのなら、私は台風になりたい。

 朱鷺子は最期にそう呟いて船から落ちた。それを聴いて、男は人から人ならざる者へと堕ちた。

 男は朱鷺子を船から突き落とした。

 ちょうど台風のたまごが産まれる場所、フィリピン東方沖での一幕であった。

 朱鷺子が沈む時、小さな小さな渦が沸き起こった。やがて渦は26.5℃の暖かな海水に揉まれ、空気を掻き乱して上昇気流を作り出す。台風のたまごが産まれたのだ。亜熱帯の燻った空気が吹き込まれ、熱い風がひゅるりと巻けば、いよいよ台風の誕生だ。

 秋も深まり、産まれたばかりの台風は弱まった太平洋高気圧を蹴散らすように突き進む。偏西風の煽りもものともせず、台風28号は異常な速度で成長を続けて日本列島の真ん中、東京を一直線に目指した。

 暴風が巻き起こすフェーン現象で人の体温まで温められた豪雨を引き連れて、連なった秋雨前線をまるで白い死装束のように身に纏い、人の形を成したトキコは真っ直ぐ北上を続けた。

 中心気圧885hPa、瞬間最大風速は100m/sを超え、超弩級の大型台風にまで成長したトキコは、ぎろり、そのまなこを剥いた。


「ねえ、あなた。生まれ変わった私を見て!」


 鳴動する台風。暴風は立ちはだかるものすべてを薙ぎ払う。台風の目玉ははるか上空から男を見つめていた。

 その視線に、心を穿たれた男は歓喜した。

 喜んで空へと吸われよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る