【夏010】夏祭、黄泉の境を呉れ呉れ踏む

「ようきたね、待っちょったよ」


 何処までも続く苔むした石段。ぽたぽたと散りはじめた夏椿。祭囃子を遠ざけるように蝉が騒ぐ。ひとたちの風が渡り、むっとするような草のにおいが吹きあがる。


「去年の夏ぶりか。なんや、こじゃんと経ったような気ぃがするのう。元気にしちょったか」


 画用紙に描いたような入道雲を背に、死んだ兄が笑った。




 

「そろそろ夏祭りやき、おまえが訪ねてくる頃やろうとおもっちょったよ。また背が伸びたんやないか、なあ」

「さすがにもう伸びんよ」

「そうかあ、親父おやじは上背があったき、おまえももっと伸びるんやないかと思うがよが」

「俺はもともと、母さん似やからなあ」


 俺よりずっと背が高かった兄を抜いてから、どれくらい経ったのか。死んでしまった兄は背が伸びない。俺よりもさきに一段あがって、それでもわずかに見おろすくらいのところにがある。


「それ、取れんのか」

「あははは、いまさらやなあ。これは境界やき。取ったら線を越えすぎる。おまえを帰しちゃれんようなったら困るきな」


 そういって、兄は鼻から上部だけを蓋う狐のお面をこつんと叩いた。

 漆塗りに青い唐草の縁取りがされた、ちゃんとしたお面だ。祭りの縁日にならんでいるような安物じゃない。しじら織の紺のゆかたにあわせたのか、結わえられた紐まで青い。


「おまえには、生きちょってほしいきに」


 あがりはじめたときは、終わりがないように思えた石段の頂についた。日のあたるところにぽつんとたたずむ、昔ながらの古民家がある。兄は死後、ここで暮らしている。三和土たたきで靴をぬぎ、青畳の和室をつっきって縁側にむかう。

 縁側に腰掛けて、朝顔の絡んだ竹垣と庭を駈けまわる鶏、夏の落葉松林というなんとも長閑な風景を眺めながら、俺は煙草でも喫いたいようなきぶんになる。でも兄は俺が煙草を喫うことを知らない。兄にとって俺はいつまでもあの頃の、幼くて泣き虫で手の掛かる弟なのだ。


「この風景は何度きても、一緒やな。雪とか降るん」


 それでも地元を離れ、雑ざってしまった方言は戻せない。


「降らんね。ここはずうっと夏や。ぼくが夏に死んだせいかな。やけんど祭りのお囃子が聴こえるがはこの時期だけやき」


 耳をすませれば、盆祭りの囃子が響いてきた。だがそれは、水の底で聴いているように遠い。


「西瓜、冷しちょいたよ。好きやったろう?」


 兄は水桶から西瓜をひとつ、ひきあげてから台所にむかった。水桶にいれられてぷかぷか浮いている小さな西瓜はあのとき、俺が池に落としたヨーヨー水風船みたいだった。


 盆祭りの晩だった。俺は小二、兄は中二の夏だった。親は働きづめだったから、けっきょくふたりで祭りに出掛けることになった。

 祭りを催す神社の境内には大きな池がある。桟橋が架けられ、池のなかに建てられた鳥居を潜ってお参りができるようになっていた。幼かった俺はお祭りのヨーヨー風船を振りまわしながら、特に訳もなく鳥居をくぐって遊んでいた。ちゃんと結べてなかったのか、指にかけていたわっかがほどけて、ヨーヨー風船がぽちょんと池に落ちた。

 俺は火がついたように泣きじゃくり、兄は取ってやるからといって身を乗りだし、橋から落ちて溺れた。

 兄の死体はあがらなかった。いまでも兄の墓はからっぽだ。

 それからだ。夏祭りの晩にあの鳥居をくぐると死んだ兄に逢えた。俺は毎年かかさずに彼のもとを訪ねる。

 

 四等分にされた西瓜にかじりついた。子どもでなくなった俺はもうこんな食いかたはしないのだけれど、いまだけは種もぷっぷっと飛ばす。あまさに続けて、拡がる青臭さが後をひいた。


「親父とおふくろは元気にしちゅうか。あいかわらず喧嘩ばっかりかねえ。親父は飲んだら、物にあたるきな。親父が投げたもんをおふくろがまた、投げかえして……騒がしいこっちゃで、なあ? いつやったか、親父の投げた湯呑がおまえの大事にしちょった竹細工の蟷螂にあたって壊れたん覚えちゅうか? おまえがぎゃん泣きしたき、さすがにふたりともおまえを宥めんのに喧嘩どころやのうなってなあ」

 

「……なあ、報せとかなあかんことがあるんや」


 他愛のない昔話に割りこみ、俺は喉からしぼりだすようにいった。


「親父が、死んだ」

「……なんで」

「なんや、難しい癌やて。……もう年も年やったから」


 兄が泣いた。狐のお面の縁から、ぼたぼたと筋になって涙が垂れてくるのを、俺はただぼう然とみていた。ああ、俺はこんなふうに泣けんかったなとおもった。葬儀の段取りに遺産相続の手続き……慌ただしいあいだに哀しみとか喪失感とか、全部が過ぎていった。


 濡れた頬を袖で拭い、兄はこてりと頭を傾けた。


「なあ、おまえ、いくつになった」

「俺か? 俺は」

「なあ、おまえも逝くんか」


 それやったら、こっから帰らんほうがええんやないか――ぞっとするほどに低い声で兄がいった。

 蝉しぐれが嵐みたいに荒む。祭囃子が遠ざかり、わずかも聴こえなくなる。

 兄が狐の面の紐に指をかけた。紐がほどけそうになる。


「兄貴!」

 想わず声を張りあげ、兄の腕をつかんだ。


 狐の面にあいた穴のなかで兄の瞳が大きくなる。


「……また翌夏もくるき。そのつぎの夏も。兄貴をひとりにはせん」


 結婚もした。子どももいる、来春には中三になって兄貴を追い越す。帰らないわけにはいかない。でも兄貴を放っても、おけない。罪悪感はある、兄貴が死んだのは俺のせいだ。けどそれだけじゃなかった。

 俺は弟なのだ。俺だけが、兄貴の。


「そうか、そうやな……そうや」


 紐をぎゅっと握り締め、兄は縁側から腰をあげた。


「じきに日が暮れるき、帰らんとね。石段のとこまで送るぜよ」


 



 夏椿の張りつく石段をひとつ、ふたつと降りていく。祭りの喧騒が近づいてきた。いつもなら最後まで追い縋るように喋り続ける兄もいまは黙っていた。花火の音が時々、静寂を破る。鳥居がみえてきた。


 振りかえると兄は、最後の一段のところで背をまるめて、泣きだしそうにたたずんでいた。あの頃はあんなに頼もしかった十四歳の兄が。


「また夏になったらきてくれ、……ちゃんと帰すきなぁ」


 夕日が兄の姿を影にする。


 夏が循る度、俺はここに訪れる。死んだ兄に逢いに。もう四十回目の夏になることを兄貴だけが知らない。

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