【夏009】太陽

 始めの頃は、異常気象だと思われていた。気温は都心でも優に45℃を超えていた。熱波による死者が相次いだ。国内の電力消費が高まり、全ての原子力発電所が稼働した。人々は外出する際、寄り添って行動するようになった。人の体温は外気と比べて低いため、涼を取るのに適していたのだ。

 農作物の収穫量が圧倒的に不足し、食糧飢饉に陥った。南アジアの大国は熱に呑まれ、瞬く間に何億もの人々が死に絶えた。海面が急上昇し、国土を失う国家が相次いだ。

 灼熱の夏。それ以外の季節は地球から失われた。四季という概念は、遠い神話の残滓として記憶の古層に眠るのみとなった。

 都市のインフラは駆逐された。電力の供給がままならなくなると、原始のサバイバルが始まった。過酷な環境下、狩猟は困難を極めた。芋で炭水化物を、虫で蛋白質を、土でミネラルを摂取することが常識となった。貴重な果実を奪い合い、虐殺が繰り返された。

 文明が崩壊してから千年の時が経とうとしていたが、そのことに気づく者はいなかった。ただ、不可解。不条理。そんな感覚だけが、人類の共通して抱えるものだった。この事態の原因は、太陽にあった。太陽活動は21世紀の通説に反して、その黒点数を際限なく増加させていた。

 畏怖とともに太陽を見上げる者が後を絶たなかった。いま、太陽を直視すると、たちまちのうちに失明する。だからその行為は禁忌とされている。しかし、その禁忌を犯した者が告げるのだ。


 眼が。

 太陽には、無数の眼があった。

 無数の眼は、じっとわたしたちを睨み付けていた、と。


 世界から見捨てられたように感じていた人々は、むしろ太陽に監視されていたのだ。その逆説に誘惑された者が天を見上げて、死んでゆく。


 このような地上の混乱を全く知らないままに過ごしている一族がいた。彼らは中世末期、動乱の時代に迫害され、人を寄せつけない森林の奥深くに身を潜めていた。一族のひとりが奇妙な大穴を見つけたのが転機となった。彼らは大穴を探索し、ここに拠点を築くことに決めた。太陽の光に与れない深淵だったが、湧き水はあり、空気も通っていた。大穴の内部には樹木の根が複雑に入り組み、地上では見たことのない、生物、植物が繁栄していた。彼らは細々とこれらを採集し、生き長らえた。

 しばらくして、一族の長が死んだ。長の死骸を燃やしたとき、誰かがこの火を絶やさずにいよう、と提案した。以来、二千年の長きに渡り、一度たりとも絶えることはなかった。一族の者が亡くなるたびに、その死骸が焼べられた。この火のことを、彼らは、太陽と呼んだ。


 母親が太陽に焼べられたとき、少年は探検に出ると決めた。その頃には、彼の一族に地上という概念はなかった。ただ、狭い生活圏の外部には、人跡未踏の大地が広がっていると想像されていた。その想像の彼方にいる何者かから、少年は絶えず呼びかけられている気がしていた。

 幼馴染みの少女だけが彼を見送った。少年は再会を誓った。何故かその確信があったのだ。


 集落を離れると、風を感じた。洞の向こうで風鳴りがしていた。彼は樹木の根を迂回しながら風上へと遡っていった。次第に少年は、自分が大きく螺旋を描きながら上層に向かっていることに気づいた。そして、この世界に張り巡らされた根は根であること、つまり、樹木は根から上に向かって伸びていくものであり、世界は上に積み重なっていくものなのだと悟った。


 ついに少年は大穴の入口に辿り着いた。そこが風を生み出していることは明らかだった。彼は思いきって穴をのぼった。

 途端、皮膚を焼くほどの暑さが身体中にまとわりついた。呼吸をすることも困難だった。何よりも、眩しかった。彼は硬く目を閉ざし、手探りで森の中を進んでいった。樹が上に伸びているということは、この世界にはまだ上があるはずだ。灼熱を掻き分け、自分を呼ぶ誰かのもとへと急いだ。


 ……


 少年は森を抜け、今では朽ち果てた都市に辿り着いた。樹木が高層建築物を侵食していた。樹々に誘われるように、少年は一際高い建物を上っていった。上層階に、人間がいた。旧世代の建築物は、残り少ない人類の住み処の一つなのだった。略奪するためか、人々は次々と少年を襲った。少年に掴みかかった者は頭蓋を砕かれ、斬りかかった者は心臓を突かれた。同胞が呆気なく返り討ちにされたのをみて、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。少年には、自分を襲った者が獣なのか、同族なのかがわからなかった。ただ、息絶える者が一言、


「太陽……」


 と呟いたので、これは確かに人間なのだと知った。

 少年は階段を上りつづけ、ついに屋上に出た。驚くべきことに、樹木はそこで途絶えていた。してみると、まさかここが世界の天井なのか。こんなところが?


 ふと、視線を感じた。

 彼は頭上を見上げた。勇気を振り絞って目を見開いた。視力の弱った彼の網膜に、太陽は強烈に焼きついた。そこには眼があった。無数の眼があった。これまで焼べられてきた人間すべての眼があった。太陽。大穴の底で、いまも燃えているはずの太陽が、何故か頭上で燦然と輝いていた。見知らぬ人々の眼に混じって、父親の眼があった。母親の眼があった。そして、ああ、どうしたことか、あの幼馴染みの少女の眼もあった。みな、悲壮な眼をしていた。焼べられた者たちは、永劫、焼かれ続けているのだ!


 しかし。

 何故だろうか。

 少年は太陽に憐れみを覚えた。

 死者を虜にしなければならないほどの太陽の孤独の深さを想った。

 彼方からの呼び声の主は、他ならぬこの太陽だった。声にならない声は熱となって身体に絡みついていた。

 地底の太陽と天空の太陽が繋がっているということは、生と死も円環をなすのだろう。すべてを救うには、まだ何も遅くはない。

 天上への梯子はどうやら外されているようだったが、天地が一体なのであれば、地底の底の底こそが天の天井であるはずだ。

 少年は既に失明していた。しかし、その眼差しは一層鋭くなっていた。


 少年は歩き出す。それは、太陽を救おうとする初めての人間だった。

 太陽は独り、少年を見つめている。

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