【冬032】薬の効き目にご用心
「……できた」
もう数か月もの間、明かりが消えることのなかった小さな研究所。無機質な電子音に混じって、感動に震える小さな声が聞こえた。所長の
「所長、できたんですか?」
「ああ、ついにやったよ、長谷川くん」
真崎は如何にもマッドサイエンティストといった風貌である。分厚い眼鏡の奥の小さな目が不気味に光った。差し出された試験管の中には、いかにも怪しげな濃い緑色のどろりとした液体。
「すぐに効果を実証してみたいものだね」
憑りつかれたように真崎が長谷川を見上げた。その視線に長谷川はぞくっと身震いする。
「所長? いや……俺は、ムリっす」
実験台にされてはたまらない。慌てる長谷川を見て真崎はすっと真顔に戻った。
「何を言っているんだ、長谷川くん? 私が飲むのさ」
「しょ、所長が?」
「私は猫になってみたかったんだ。自由で気ままで、可愛い猫にね」
真崎は窓辺に歩み寄り、上りかけの朝日に試験管をかざした。光の映り込んだその液体はまるでエメラルドのように美しく、さっきまでの毒々しさは微塵もなかった。
「午前六時四十分、治験開始。長谷川くん、後のことは頼んだよ」
そう言い残して、真崎は迷うことなく一気に薬を飲みほした。
◇
みゃあぁぁ。
「猫だよなあ、どっからどう見ても。ね、所長?」
うみゃ。
「俺のこと分か……らないよなあ」
みゃぁう。
「可愛いなあ」
それは「猫になれる」薬だった。真崎は静かに
長谷川はじゃれついてくる猫と戯れていた。つかの間の癒し。外はだんだんと明るくなっていく。しばらくしてガチャっと大きな音を立ててドアが開き、長谷川と同期の
「長谷川おはよう、今日も徹夜か?」
「おはよう野田。聞いてくれよ、実は……」
「ぬおっ?」
長谷川が言い終わらないうちに、野田が猫に気付いた。
「おまっ、研究室に動物入れんなよ。早く外に出せっ」
「この猫は違うんだ、まずは話を……あっ」
激しい剣幕に驚いた猫が、野田の手を引っ搔いた。
「いってえ、このクソ猫があ」
本気で猫に掴みかかろうとする野田を長谷川が必死に止める。
「放せよっ、俺が追い出してやるっ」
「落ち着け野田っ。この猫は、真崎所長なんだっ」
ぴくりと野田の動きが止まる。
「所長だって? はは、まさか」
引きつった笑いを頬に張りつけ、野田はふらふらと後ずさった。
「あの薬が完成したっていうのか」
「ああ、お前が来るほんの数分前に」
野田は目だけを動かして注意深く猫を観察する。それからそっと研究室を見渡した。
「てか、所長どこよ?」
「ここにいる」
「マジで言ってんの?」
もう一度猫を見ると、野田は頭を抱えた。
「俺さっきクソ猫って言ったよな」
「大丈夫だ、たぶん人間の言葉は解ってない」
「ならいいけど……」
不安そうな野田をよそに、猫はゆっくりと室内を歩き回っていた。ストーブを見つけ、その周りをぐるぐると回っている。
うみゅぅぅ。
温かいその場所が気に入ったのか、猫は大きく伸びをすると、のんびり毛づくろいを始めた。
「自由なもんだな」
野田はほうっと息を吐き、長谷川を振り返った。
「朝メシまだだろ?」
「うん、まあ」
「俺売店行ってくるわ、何か食うもん買ってきてやる。長谷川はゆっくり猫の相手でもしてろよ」
ニット帽をかぶりなおしながら、野田はふと首を傾げた。
「ついでに猫の分も買うか。何食べるんだ、キャットフード?」
「そうだね、今はラーメン食べさせるわけにいかないだろうし」
いつもビーカーで湯を沸かしてカップラーメンをすすっていた真崎の姿を思い出し、長谷川がくすりと笑う。野田は「売店にキャットフードなんてあったかなあ?」と呟くと外へ出て行った。
「所長、野田がごはん買ってきてくれますよ。もう少し待ってくださいね」
みゃぁおぅ。
呼び掛けると猫は足元にすり寄ってきた。もうすっかり明るい。そろそろ他の研究員たちもやってくる時間だ。ぽかぽかと温かいガラス越しの日差しが眠気を誘う。
――野田が帰ってくるまで、ちょっと横になろうかな。
長谷川は応接室に移動した。猫がついてくる。ソファーに深く靠れると、猫は軽やかにジャンプして長谷川の胸の上で丸まった。そのふわふわの毛並みを撫でているうちに猛烈な睡魔に襲われ、長谷川はスッと眠りに落ちていった。
◇
「……ふむふむ。猫の間は人間の言葉を解さないのか。人間の思考も持たない。二十ccで約二時間の効果、か……うーん、なるほど」
真崎が長谷川のまとめたメモを睨んでぶつぶつ呟いていた。メモの最後に一行だけ付け加える。
「人間に戻ってからも猫でいる間の記憶は一切ない、と」
どうやら眠っている間に人間の姿に戻ったらしい。目が覚めたとき、真崎は応接室のソファーで一人横になっていた。長谷川の、いや、長谷川と野田の完璧な記録がなければ、自分がいつ人間に戻ったのかさえ分からなかった。
「まだまだ見直しが必要だな」
ふと真崎はメモから顔を上げる。何だか居心地が悪い。研究室では若い研究員たちがひそひそ話をしていた。にやにやと目配せし合っては、妙な視線を送ってくるのだ。真崎が眉をひそめたそのとき。
ピロリン♪ メッセージアプリの通知音が響いた。
「しまった、誤爆したっ」
誰かが小声で叫んだときにはもう遅い。すぐに確認した真崎が大声を上げた。
「なななな、何なんだこれは?」
真崎は椅子を倒す勢いで立ち上がった。研究員たちが一斉に振り返る。
「すっ、すすす、すぐに消したまえ!」
赤面した真崎はそう叫ぶと、両手で顔を覆い机に突っ伏した。研究員たちはそんな真崎をにこやかに見つめ、長谷川は苦笑いしている。
売店でエナジードリンクとお握りとキャットフードを購入し、研究室へ戻った野田が撮った短い動画。真崎と長谷川が気持ちよさそうに眠っていた……だけではない。真崎は長谷川の胸にしっかりと抱かれていたのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます