【春018】追憶電車(春)

 電車に揺られている。


 ゆりかごに似た、穏やかに心地よい揺れを感じている。ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。瞳を閉じ、瞼の上に柔らかな陽射しが刺さるのを煩わしく思う。

 外に出れば風は冷たいが、陽ざしだけはうっすら汗がにじむほどに暖かい。春も半ばの、桜咲き誇る季節だった。

 とおるは深く息を吸い込む。


 春は嫌いだ。


 陽子が死んでしまったのは、今日のような暖かい春の日だった。


 彼女しかいないと思った恋人だった。徹の人生を変えた女性だった。

 こんな日は思い出してしまう。彼女を失ったあの日の痛みが、癒えることなく自分の中にあることに気付いてしまう。

 どうしようもなく春が嫌いだ。なくなってしまえばいいと思う。

 春という季節がなくなったって、彼女を失くした事実までなくなるわけではない。そうわかっていても。


 ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。

 電車が揺れている。トンネルに差し掛かったのか、暑いほどだった陽射しが翳った。時間が止まったかのような感覚があり、全ての音が遠く感じられる。

 夢を見た。鈴を転がしたような彼女の笑い声が聞こえる。しっとりした彼女の指が徹の指に絡む――――。


「お客さん、お客さん」


 ハッとして起きた徹の前に、車掌らしき男が立っている。男は徹の手元を指さしていた。

「お客さん、ここで降りるんじゃないの? その切符じゃあ、ここまでだよ」

 そう言われ、徹は何がなんだかわからないまま「すみません、ありがとうございます」と頭を下げながら飛び起きる。そこが何駅なのかも確認せずに下車した。


 電車を降りた瞬間に、徹は呆然とする。


 桜の花びらが眼前を横切る。風が吹き、狂ったように薄紅うすくれないが舞い上がる。

 駅のホームの、はずだった。暖かい昼下がりのはずだった。しかし目の前に広がる桜並木は夜に映え、振り向いて確認したがそこに電車も線路もない。


 見覚えのある道だ。ここは、そうだ。十年前まで通っていた大学前の桜並木だった。


「あれ、どうかしました?」


 さらに徹は絶句する。そこにいたのは――――見間違うはずもない、大学時代の陽子だ。


 陽子は人好きのする朗らかな笑顔で「あんまりお酒強くない人ですか?」と言っている。口を開けたままの徹は何も言えないままそんな陽子を見ていた。

「気分よくないですか? もう帰っちゃいます?」

「え……」

「いやー、私も帰っちゃおっかなと思ってたんですよね。まさか飲みサーだとは思わず」

 そのままにこにこと陽子は徹の隣を歩く。徹は何とか唾を呑み込み、俯いた。


 どうやらこれは夢だ。それも、彼女と初めて言葉を交わした日の夢だ。大学で同じサークルに入り、その歓迎会で二人は話をした。そういえば、そんなことがあったのだった。


「桜、めっちゃ咲いてますね。ここの桜並木だけは、けっこーお気に入りです。大学のホームページ見たことあります? すごいですよ! どーんとここの桜並木の写真使ってて」

「……夏は虫が落ちるよ」

「ですかね? 多角的な視点ですね!」

「僕は春が嫌いだ」

「花粉症ですか?」


 徹は笑ってしまいそうになる。そうだった。本当に、全部が全部こんな調子だったのだ。

「花粉症つらいですねー」と陽子は本当につらそうに言う。徹はくすくす笑って、「陽子……さん、も花粉症なの?」と尋ねてみた。

「え、私の名前……」

「いやっ、あの、」

「すごいですね! さっき自己紹介したばっかりなのにもうみんなの名前覚えてるんですか!? 私なんか全然ですよ。人の顔と名前覚えるの苦手で……」

「あ……うん」

 我ながらちょっとキモかったなと考える。ふと、あの頃の自分も全く同じことを考えていたと思い出す。急に恥ずかしくなり、徹は頭を掻いた。


「もう一度、お名前訊いてもいいですか?」

「……川崎徹、です」

「徹さんってお呼びしても?」


 徹はちょっと黙って、静かに頷く。「もう忘れませんからね」と陽子は言った。

「徹さん」

「はい」

「春ですねー。春真っ盛りですね」

「ええと、はい。春……ですね。嫌になるほど」

「だから私たち、お友達になりましょう」

 立ち止まる。彼女も半歩だけ先に行って、徹を振り向いた。

 微かな風が彼女の髪を揺らし、花びらが絡む。陽子は目を細め、陽だまりみたいな笑顔で徹を見た。


「私、春ってすごく好きなんです」

「ああ……そう、なんだ」

 そうだったかもしれないな、と徹は思う。

「徹さん、今日のこと覚えててくださいよ。これから私と仲良くなったら、今日のことがいい思い出になったりしません? さすがに厚かましいですかね」


 半歩、徹に近づいてくる。瞬きをして、ちょっと小首を傾げて、徹を見上げた。「それで……そしたら……」とさすがに恥ずかしそうに陽子ははにかむ。


「私に免じて春のこと、好きになってあげてくださいよ」


 徹は目を見開く。それから、じわじわと目頭が熱くなってその場にうずくまった。


 陽子が慌てて「どうしました? 気持ち悪いですか?」と徹の背中をさする。嗚咽が漏れて、いよいよ彼女は「吐きます? 袋、貰ってきますか?」と真剣な顔をした。


 どうして僕が春を嫌うのか、君は知らない。

 ひどい話だ。いつだってそうだ。僕は君に出会うまで、やみくもに世界が嫌いだった。だけど君は奔放に世界を愛していて、僕は今までも君に免じて多くのものを好きになってきた。僕は僕自身のことすら、君に免じてやっと好きになったばかりだったのだ。


「なんでだよ……ずっと僕の隣にいてくれよ」

「えー? いいですよー?」


 徹は顔を上げ、陽子のことをじっと見る。陽子は目を閉じて、「いいですよ。しばらくここで休みましょう? お酒飲んでる時って心細くなりますもんね」と屈んだ。

 微笑んでいる陽子の頬に手を伸ばす。今なら届くはずだった。そうして今度こそ、絶対に手放さない。そうすれば、きっと。きっと――――




 目を開ける。頬が冷たい。涙が落ちて、シャツにシミを作っていた。

 夢だったろうか。夢、だったのだろうな。

 それでも春の夜の温度を、桜の花びらが鼻先をくすぐる感触を、彼女の心地よい声を、鮮やかに思い出せる。


 電車の窓から外を見た。

 彼女には負けるよな、本当に。

 澄み渡るような青空の下。淡く色づいた桜の樹は、悔しいほど綺麗だった。

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