【冬024】雪の下に願うこと
傷害罪の累犯。
裁判所の下した判決は、懲役二年の実刑だった。
長い勤めを終えて、刑務所を出た。ちらほらと舞う雪の中を、迎えに来た組の車で走り抜けた。若頭がタバコをくゆらせながら「痩せたな」とつぶやいた。
「腕も
「すいません」
「心配かけやがって」
頭を
十一桁の数字が乱雑に書き留めてある。
「近頃、その番号からしきりに電話がかかってくる。お前の出所はまだか、出てきたら会わせろってうるせぇんだ。お前の方から掛け直せ」
押し付けられたメモを俺は広げた。「女ですか」と尋ねたら、若頭は「おう」とタバコをふかした。
「アンナとかいう名前のな。知り合いの嬢か」
そんなもんじゃない。二度と会えない、会ってはいけない存在だ。俺は若頭が目を離したすきに、メモをぐしゃりと握りつぶした。あとで捨てようと心に決め、降りしきる雪を静かに見つめた。
世界が白く染まってゆく。
土気色の現実を塗り潰して上書きするように。
上書きしたって消しきれないものはある。背中の
一連の報告を終えた頃には夜が更けていた。
事務所を出た途端、そこに立ち尽くすセーラー服の女を認めて、俺は凍り付いた。
「お前……!」
「
彼女は傘に積もった雪を払い落とした。
「ずっと待ってました。組の人から聞いてませんか。たくさん電話もしたのに……」
「ふざけんな。二度と関わるなって言っただろうがっ」
雪よりも冷えた肝をなだめながら俺は彼女の手を取った。
あれから二年が経って今は十六歳、高校生のはずだ。こんなところを誰かに見られたら──。かじかんだ手を懸命に引いて、ひとまず近所のファミレスへ彼女を連れ込んだ。
「何のつもりだ」
ドスを利かせると、彼女──アンナは肩を縮めた。
「……お礼、言いたくて」
「要らねぇって言っただろ」
「嫌です。恩人なんです」
「組員とつるんでるなんてバレたら
「いいです。友達もいないし、頼れる人も他にいないし」
アンナの瞳は揺らがない。まっすぐに見つめられた俺は困り果てて、小指の欠けた手でおもむろにタバコをつまんだ。
二年前、俺はアンナの父親を半殺しにして逮捕された。やつは当時、数百万円もの多重債務を抱えていた。返済を迫るべく家を訪れると、父親は「娘を借金の
「父は本気で私を厄介払いする気だったと思います。虐待だってひどかったし……」
アンナはココアのカップを置き、手首をさすった。
「いまはどうしてる」
「独り暮らしです。生活費も自分で稼いでます」
「夜の仕事じゃねぇだろうな」
「普通のバイトです」
むっとアンナは唇を尖らせた。
それから、また少しだけ肩を縮めて、上目遣いに俺を覗き込んだ。
「……苦しかったですか、刑務所」
俺は答える言葉を持たなかった。
そりゃ、二度、三度と経験したい代物じゃないのは確かだ。
「ごめんなさい。私のせいであんなことに……」
神妙にアンナが頭を下げる。伏せられて沈んだ瞳の色が、あの日、借金の形にされかけていたときのそれにあまりにも似ていたので、俺はわずかに身を起こした。
「償えっていったら償えんのか。刑務所で暮らした二年間を取り返せんのか」
「それは……」
「なら、簡単に人前で頭を下げるな。胸を張って堂々と生きろ。過ぎたことをいつまでも引きずるな」
アンナの顔が歪んだ。俺の胸にも静かな痛みが走った。しくじりのケジメで小指を落とされた日の痛みよりも、何倍も鋭く、癒えることのない痛みだ。
黙って席を立ち、支払いを済ませる。
アンナは真っ暗な顔で俺のあとをついてくる。
「待ってろ。タクシーを呼ぶ」
雪を見上げながらスマホを取り出すと、「待って」とアンナが小さく叫んだ。
「まだ……帰りたくない」
安物の手袋を外した彼女の手が、俺の手を掴んで
「誰が何と言おうと、あなたは恩人なんです。あの頃、雪の底へ沈んでゆく私を見つけてくれたのは、警察でも家裁の人でもない。あなた一人だった」
手のひらに熱い感触が弾けた。アンナは可愛らしい顔を台無しにしながら、けなげな瞳で俺を見上げていた。
「落ち着いたら連絡をください。刑務所での二年間を埋め合わせることはできないけど、せめて何か、お礼をさせてください……」
胸が詰まった。
視界がくもったのは、吹きすさぶ雪のせいだ。
ゆっくりと俺は首を振った。アンナの手を剥がして、そっと若頭よろしく頭を
お礼なんて要らない。善意に対価は必要ない。
俺がアンナの父親を成敗したのは、やつがアンナを借金の
「上杉さん……っ」
後部座席に押し込まれながら、半泣きでアンナが俺を呼び止める。
俺はドアのふちを掴んだ。
「お前はもう自由なんだ。明るい世界を歩んでゆけ。……元気な暮らしぶりをたまに聞かせてくれりゃ、お礼はそれでいい」
言い切りざま、ドアを閉めた。
アンナに真意が伝わったのかは知らない。
消えゆくタクシーの尾灯を見送りながら、小指の欠けた手をいたわった。吐息をついて、温もった胸に手を当てて、この祈るような感情は何だろうと問うてみる。学のない俺には上手く言葉が浮かばない。確かなことは一つだけだ。──あの時、アンナを守って刑務所に入ったことを、俺は後悔しない。これまでも、これからも。
雪の重みに負けるな。
幸せになれよ、アンナ。
何物にも上書きされないくらいに。
俺は捨てそびれた連絡先のメモを広げて、折り畳んで、またポケットに戻した。
雪はまだ、何食わぬ顔で降り続けている。
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