【秋002】果実は錦秋に小説家の夢をみるか

 小説の頁にひらりと銀杏の葉が落ちてきて、秋を知る。

 秋は冬隣というだけあって寂しい季節だ。錦繡きんしゅうを纏い、どれだけ華やかに飾りつけていても、北風が吹けば綺羅を剥ぎとられ、乾いた幹をさらすだけ。

 銀杏の葉を栞がわりにそのまま頁をとじて、私はイートインできるカフェのオープンテラスを後にした。

 私はいつも学生鞄のなかに二冊の本をしのばせている。ひとつはまだ読んでいない小説、読みかけの小説だ。大体一週間ほどで入れ替える。もうひとつは頁の端が擦りきれるほどに読みかえしている愛読書。タイトルは〔金の果実を隠した人たちの祀り〕――四十五年も前に発刊された幻想小説だ。毒蜘蛛の糸と薔薇の棘で刺繍をする妖精が千年掛かって創りあげた刺繍布のなかで繰りひろげられる姫君たちの御伽噺――水没都市で踊り続ける音楽を知らない人魚たちの夢幻劇――等々、八篇の小説が収録されているが、何れも哲学の香りたつような世界観に精緻な描写が際だち、読みかえす度に気づきがある。

 著者はれい 夢亊ゆめじ。ネットで検索をかけても、この絶版になった一冊のタイトルが辛うじてあがってくるだけで、読者の感想はおろか別の小説を出版したという記録もない。素姓はいっさいが不詳。筆致から女流作家だと想われる。現在は別の名義で活動しているのではないかとも訝しんでいるが、残念ながら捜しようがなかった。

 この小説と逢わせてくれた古本屋にでも寄っていこうかと高架橋を抜けたところで、自転車が凄まじい勢いで私を追い越していった。ひどい運転だ。自転車はさきを歩いていた老婦人をかすめた。「あ」老婦人がよろめいて、転ぶ。落ちた鞄のなかに入っていたものが落ち葉に埋もれたアスファルトにまき散らかされた。

「だいじょうぶですか」

 想わず駈け寄り、助け起こす。

「ありがとう、だいじょうぶよ」

 透きとおるような白髪を結いあげた品のよい老婦人だ。唇に施された紅はあざやかだが強すぎず、しなやかな声を縁どっている。盛夏を終えて葉を落とした薔薇の枝みたいなひとだとおもった。薔薇は葉のみならず、枝までもが華やかな紅にいろづくのだと何処かの小説で読んだことがあった。

 車道に転がらないうちに財布やら口紅やらを拾い集める。

「これ」

 想わず声をあげた。

 荷物にまざっていた文庫。それは他でもなく。

れい 夢亊ゆめじじゃないですか、もしかしてお好きなんですか?」

 驚いたのは私ばかりではなかったようだ。老婦人はぱっと瞳を輝かせた。

「お嬢さん、夢亊を読んだことがあるの?」

「読んだどころか……これ、ずっと鞄にいれて何度も読みかえしてます」

 同じ表紙の文庫を鞄から取りだすと老婦人は「まあ」と感嘆するような息をついた。

「そう、そうなの……あらやだ、こんなとき、なんていえばいいのか」

 老婦人はこころなしか、瞳の縁を潤ませる。

「その小説、私が書いたのよ。ほど前に」

「……うそ」

「ほんとう」

 にっこりと老婦人は微笑んだ。

「今の御礼もかねて何処かで御茶でもしましょうか。読者さんに御逢いできたのなんてはじめてだもの」

 


              ◇



 朗らかに微笑む彼女を疑ったわけではない。けれど、こんなことってあるのだろうかとにわかには信じがたく、なかなか実感が湧かなかった。

 でも彼女に誘われて、蔦の絡まる隠れ家みたいな喫茶店の扉を潜ったときにすとんと理解が落ちてきた。この老婦人は紛れもなくあの小説の著者なのだと。

 そこは刻がとまったような処だった。年期の入った家具に喇叭がついた蓄音機、回転式の壁掛電話。すり硝子から差す夕陽は蜂蜜を垂らすように静かなその空間に充ち、微睡むように時間の観念を鈍らせる。

 悠久の刻を経た琥珀のなかにいるかのような錯覚に息をのんだ。

「窓際の席が、私のお気にいりなのよ」

 さあさ、おいでなさいと声が招いた。

 それは彼女の物語を紐解いたときの、あの、幻想の底まで誘われていく陶酔と酷似していた。

 年季の入った革張りの椅子にすわり、フルーツポンチの華やかなゼリィをすくう。

「金の果実を隠した人たちの祀り――何度も読みかえしています。どうしてこんなせかいを想像できるんだろうって……読んでいると、この身ごと幻想に取りこまれて何処までも落ちていくような心地になるのに、どうしても一線が越えられないような、触れられないもどかしさみたいなものがあって……好きです。その。他にも書かれているんですか」

 糺夢亊は微笑んだままでいった。

「書けなかった」

 落ち葉のにおいがする声だった。

 嘘だとおもった。彼女ほど幻想を愛している人が、書けない、はずがない。

「ああ、ごめんなさい。違うわね。書いたけれど、本にはならなかったの」

「なんでですか」

「売れなかったのよ。笑ってしまうくらいに。……そのときは悔しかったわ。なんで。と想った。私はよいものを書いた、よいものを出版おくりだしてもらったつもりだった。でも……そうね」

 彼女は私のもっていた文庫に触れ、擦りきれた表紙をなでた。

れい夢亊ゆめじはもういないけれど……幸せだったわ。こんなふうに物語を愛でてくれる読者ひとに読んでもらえて」

 ひゅうと胸のなかに凩が吹いた。糺夢亊は死んでいたのだ。いや、違う。今、死んだのだ。最後の一葉を落とすように。

 彼女のなかの作家が。

「糺先生。書いてください」

 想わず声を張りあげた。

「そんなの、幸せじゃないです。先生の幻想はもっと、たくさんの読者に読まれるべきです」

 彼女はこまったように視線を彷徨わせた。

「私は読みたいです。糺夢亊のせかいをもっと読みたい。……読ませてください」

 そんなの読者わたしのわがままだ。わかってる。

 けれどそれを聴いた彼女は微笑の剥がれた唇をかんで、一瞬だけ強い瞳をした。

 物語を紡ぐ人の、だった。

「三年って」

 それは読者わたしにむけた言葉だったのか、作家じしんに掛けた言葉だったのか――あるいは彼女のなかにいまだ息づく物語にたいする言葉だったのかもしれないと私は想う。


  

               ◇



 三年後の晩秋、私は糺夢亊と再会した。本屋の新刊の棚で。硬い表紙の上製本には金の帯が巻かれていた。

「待ってましたよ、糺先生」

 いまさらになって想いだす。秋は実を結ぶ季節だった。本棚から金の果実を摘む。四十五周の季節を経て結んだ果実はよく熟れているに違いなかった。

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