【夏027】金鷲

 金鷲旗きんしゅうきは毎年七月に開催される柔道のオープントーナメントだ。勝ち抜き戦方式のこの大会では、全国から参加した四百以上ものチームによる熱い戦いが三日間にわたって繰り広げられていた。

 

 通称『夏の福岡』最終日。空調の効いた会場に熱気と汗のにおいが立ち込める。大将は一年の高岡たかおか。感触を確かめるように畳を踏みしめ、相手を見据えるその姿は一段と大きく見えた。

 

 僕たちをここ最終日まで連れてきてくれたのは高岡だ。いよいよ大将戦。僕は祈るように胸の前でぎゅっと手を組んだ。

 


 

 高岡は中三のとき個人で全国を制覇した男だ。入試のときその姿を見つけて僕は驚いた。記念受験だろうと勝手に納得していたら、入学式で見かけてもう一度驚いた。

 

 高岡は柔道部員ではない。入学して一ヶ月、僕はしつこく誘い続けたけれど、高岡は困ったように首を横に振るだけで。あまりの手応えのなさに、僕はそのうち勧誘を辞めた。

 

『全教科赤点の猛者がいるらしいぜ』


 そんな噂を聞いたのは中間テストが終わってすぐのことだった。それが高岡だった。放課後は居残り勉をしている高岡を毎日のように見かけた。全国の強豪校から引く手あまただったはずの高岡が、スカウトを全て蹴って受験した進学校。あんなに強かったのに、こんなにあっさり手放せるものなのだろうか。僕は不思議に思うけれど、高岡は何も語らない。


 梅雨のある朝、登校したての僕は高岡とすれ違った。高岡の左目の真横にはまだ新しい擦り傷と痣があった。


「その怪我どうしたの?」

「ああ、昨日の稽古でちょっとね」


 高岡の答えに僕は思わず怪訝な顔をした。

 

「稽古? 柔道辞めたんじゃないの」

「うん、俺の親父の道場で一緒に稽古させてもらってる」

「なにそれ、初耳。柔道部には入らないんだ」

 

 心がもやつき、つい余計なことを口走った。


「そっか、僕たちじゃ相手にならないもんね」

「違う、そんなんじゃない。俺は……」

「別にいいよ。じゃ、僕もう行くから」

 

 まだ何か言いたげな高岡を遮って、僕は自転車のペダルを踏み込んだ。なぜか無性に虚しかった。それから高岡とは話をしていない。そもそもクラスが違うから話さなくても支障はない。


 その後の高校総体地区予選で僕たちは初戦敗退し三年は引退、残った部員は二年が三人と一年の僕だけ。これでは団体戦の規定人数にも満たない。僕は久し振りに高岡の元を訪れた。


「高岡さ、総体来てただろ?」

 

 僕の問いに高岡は少し驚いた顔をした。僕は知っている。制服姿の高岡が真剣な顔でじっと試合を見ていたことを。


「本当は試合出たいんじゃないの?」


 そう言うと、高岡はまた困ったように笑った。


「金鷲旗って知ってる?」

 

 僕は一人でしゃべり続ける。

 

「一緒に出ない? 人数が足りないんだ、一回だけでいいから。申し込み、今ならまだ間に合うし」


 少しの沈黙の後、高岡は言った。

 

「俺、勉強を優先したいんだ。放課後は補習だし、部活はあんまり参加できないと思う」


 そう言って俯いた高岡は「でも」と続ける。

 

「一回だけなら」

「え?」

「俺も試合に出てみたい」

 

 再び顔を上げた高岡の目には力がこもっていた。


 

 

 新幹線に乗って現地入りする。迎えた試合当日、初戦から相手先鋒に四人抜かれたところを高岡が一気に五人抜き返した。その強さを目の当たりにした僕たちは、声援を送ることさえも忘れていたほどだった。


 チームの士気は爆上がりだった。後ろに高岡がいる、それだけで僕たちは安心して戦えた。最終日、がむしゃらに相手にしがみつき、先方から副将までの四人がかりで相手二人を引きずり下ろした。残り三人。高岡は落ち着いた試合運びで二人を抜き返し、大将戦へ持ち込んだ。


 そして冒頭に戻る。高岡は大きく息を吐きながら敵と対峙していた。大将戦では長い組み手争いの末、ついに高岡が攻撃を仕掛けた。

 

「ぅおらあぁぁっ」

 

 高岡が吠えた。渾身の一撃だった。見事な背負い投げ、勝った。誰もがそう思った。直後、ぎりぎりで逃げられ足払いを食らう。抑え込まれた高岡が必死にもがく。僕たちはただ祈るだけ。そのまま技ありを奪われ、そして、僕たちの戦いは終わった。


 畳を下りた高岡は拳を握り締め、しばらく試合場を睨みつけていた。試合前よりもずっとずっと険しい表情で。


 柔道着のまま会場を後にする。すぐ近くの宿まで歩いて帰り、着替えを終えるころにはもういつもの高岡に戻っていた。

 

 僕たちにとっては快進撃だった。思いがけず三泊四日の長旅となった福岡遠征、ようやくお楽しみの観光の時間がやってきた。観光といっても、僕たちの頭は美味いもので腹を満たすことが最優先。目的は豚骨ラーメンだ。辺りにいい香りが漂っている。見ると、ちょうどいいところに屋台があった。


「みんなよく頑張った。ラーメンは奢りだ。替え玉も自由に食ってよし」


 監督が大声で言った。せっかくガイドブックで天神の有名店をチェックしてきたというのに空腹には勝てない。僕たちは監督の激励に飛び跳ねながら一直線に屋台を目指した。

 

 ラーメンは信じられないくらい濃厚で、戦い疲れてすっからかんだった僕たちの胃袋をがっつり満たしてくれた。次々と替え玉を平らげる僕たちの目の前で、屋台のおっちゃんが威勢よく麺を湯切りする。五杯目の替え玉の最後の一本をすすり終え、僕は一気に汁を飲み干した。


「美味しかったあ」


 丼を置き、額に浮かぶ汗を拭ったそのときだった。時の流れが急に緩やかになり、場が一瞬だけシンとなった気がした。あれだけうるさかったセミの声さえも聞こえなくなって。先に食べ終えていた高岡の小さな呟きが聞こえた。

 

「……俺、柔道部入ろうかなあ」


 本当に小さな声だった。でも、その声はそこにいた全員の耳に届いた。視線が一斉に高岡に集まる。


「お前、今……?」 


 勢いよく振り向いた僕に高岡が「へへ」と笑った。再び、セミがけたたましく鳴き始める。


 次の瞬間、僕たちの大歓声がセミの声をかき消した。気が付けば、おっちゃんまでもが僕たちと一緒に高岡を取り囲み、ハイタッチを交わしている。

 

 初めての福岡は熱かった。僕たちは柔道が好きだ。強いとか弱いとかそんなの関係なくて。どこか吹っ切れた顔の高岡が声を出して笑っていた。

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