【Ex-春018】追憶電車(エキシビジョン)
電車に揺られている。
一体いつから乗っているのかとんと思い出せない。シートに身を預けながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
乗客は車掌に声をかけられ、一人また一人と電車を降りていく。俺も次の駅で降りようと心に決めたものの、長いトンネルが終わらない。
真っ暗な外。電車の進む音はごうごうと化け物じみていて、不安ではないものの、ひどく遠くまで来てしまったような気がしていた。
立ち上がる。車掌に次の駅までどれくらいか聞きたかった。
どんどん先頭の方へ歩いて行き、人影が見えたので声をかける。制服をきっちりと着こなした、車掌で間違いないだろう。
「次の駅まではどれくらいですか」
「もうしばらくですよ」
何とも言えない沈黙のなか、どうやら何を言ってもダメらしいと思い俺は肩をすくめた。
ふと、近くの座席に子供が座っていることに気付く。すんすんと鼻を鳴らし、泣いているようだった。
車掌が「お知り合いのお子さんで?」と訊いてきて、「いや……」と俺は呟く。
知らない子供だが、泣いてりゃ気になるのは当然だろう。
「どうした、坊主。泣くなよ」
そう言って、棒付きのチョコを差し出す。子供はパッと顔を上げた。その瞬間、俺はその子供を知っていると思った。
電車はトンネルを抜けたらしい。俺と子供の間を、射し込んできた光が泳ぐ。
不意に桜吹雪に視界を奪われ、呆気にとられた。
窓の外は――――春。
どこまでも続く桜並木の下。母に手を引かれ、まるで空から
窓の外は、夏。珍しく旅行に連れて行ってくれた父と海釣りをした夏。
窓の外は、秋。叱られて閉じ込められた蔵の中から、もみじの葉に手を伸ばした秋。
窓の外は、冬。受験に失敗し、父から殴られそのまま家を出た冬。
教師となった春、恋人と式を挙げた初夏、二人で子供服を買いに行った秋、妻の骨壺を抱いて途方に暮れた冬。
激動というほかない子育ての合間に見た桜が、泣くほど綺麗だった春。
父と海釣りをして、その背中が随分と小さくなったのに驚いた夏。
知らない街で泣きじゃくる生徒を、
娘の結婚式で、あの子があまりに泣くものだから涙も引っ込み苦笑しながら抱きしめた冬。
あらゆる色と、音と、香りがあった。全ての四季がそこにあった。そのどれもが美しく、きらきらと輝いていた。
声が聞こえた。先生、と。
せんせい、せんせい、と。やむことのないそれは、そのすべてが、知った声だった。
その中でひときわ大きな声が、言った。
“おとうさん”
小さな手に袖を引かれる。振り向けば、今はもう二十歳を過ぎているはずの娘の幼い手が見えた。
“いかないで”
息が止まるような、気がした。
ああ、そうか。ようやく――――思い出した。
死んだのか、俺は。
“いっしょに、いきたい”
どうしたものかと思っていると、娘の後ろから影が現れた。影はじっと俺を見て、会釈する。娘の夫となった青年だ。義理の息子ともいえる。
「よろしく頼む」と言えば、青年は頷いて娘の手を引いて行った。
娘は幼い姿のままで、泣きじゃくっている。まるで夏祭りの夜にはぐれた時のように泣いている。そうして少しずつ、遠ざかっていった。
その後ろ姿を見ながら、肩の荷が下りたような、しかしやはり追いかけていきたいような、不思議な感傷を覚えた。
泣き虫な子ばかりだ、と笑って背を向ける。
電車は速度を落とし、ゆるやかに停車した。
ドアが開いて風が吹き込む。車掌は脱いだ帽子を胸の辺りで押さえ、「終点です。お疲れさまでした」と言った。
ホームには懐かしい顔がある。俺は電車を降りて、その顔を見つめた。
「ちょっと来るのが早すぎるんじゃない?」と、妻が言う。
「君に言われたくないよな」
「まあ、そうでしょうね。悪かったですね、リタイアが早くて。ご迷惑おかけしました」
なぜだか不思議と落ち着いて、俺は彼女の隣に立つ。彼女も俺の顔を見ないまま、「お疲れ」なんて言ってのけた。
「どうでした? ここまで」
「どうって……どうなんだろうな。逆に聞くが、君から見て俺の人生は何点だ?」
「うーん」
本気で悩み始めた彼女に、「なんか傷つきそうだからいいよ」と俺は苦笑する。
「歩こうか」
「それはデートの誘いですか?」
「そんなんじゃない」
「あなたが初めて私を誘ったときの言葉もそれだった。“ちょっと歩こうか?”」
「あれはそういうつもりじゃない」
「そういうつもりじゃなかったなら、なんで今も覚えてるんでしょうか」
俺は思わず彼女を見る。彼女は『してやったり』という顔でくすくす笑った。それから俺に手のひらを差し出す。「どうぞ。あなたが来るまであっためておきました」と得意げだ。俺はその手を掴み、「死んでるのにあっためるも何もあるのか?」と疑問を口にする。
「私たち、いつかきっとあの子に怒られるね。二人して早すぎ、って」
「まあな……。でも俺はちゃんとあいつの花嫁姿を見届けたし」
「見てましたよ、あなたの渾身のスピーチ」
「見てんなよ」
いつの間にか電車は消えている。線路沿いを歩いていると、外は妙に明るい夕空だった。どこへ向かっているのか、どこへ辿り着くのか、とんと見当もつかない。どこからか夕焼け小焼けが聴こえてきて、空は紺色と橙色が混ざった深い紫に見える。
俺は、と口を開いた。
「君がいないとダメだと思っていた」
「あら。ほんとう?」
「実際、全然ダメだった」
「ダメだったんですか」
「君がいなくてダメダメな俺にしては、頑張った方じゃないか?」
きょとんとした彼女が、俺のことをまじまじと見る。それから吹き出し、可笑しくて仕方ないという風に笑った。「やだやだ。いい歳してそんな甘え方」と腹を抱える。
彼女は俺の襟を引っ張って、頭を下げさせた。
「私の旦那様はいつだって、百点満点中百億点!」
そう言って、俺の頭を撫でまわす。
「ずっと君に会いたかった」と言えば彼女は「わかってます」と目を細め、俺の首に手を回した。そうして、俺たちは口づけを交わす。
いくつもの季節の果てにたどり着いたこの場所で――――悔いもあればやり残したこともたくさんあるが、それでも美しいものを美しいまま持ってこれた。いい人生だったと、そんな風に思った。
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