【冬039】木蓮に手を伸ばす【性描写あり】

 葉子とは客のごった返す居酒屋で出会った。

 店は食い物と人間の匂いで充満していて、連れのいない俺はビールをちびちび飲んでいた。金に余裕がないのに、週末を持て余して入り込んだカウンターの隅。冬の気配に背をまるめて、ジョッキ半分で軽く酔っていた。


 「隣空いてますか」少し低い女の声に、俺は振り向きざまぞんざいな返事をした。そしてひどくまごついて、やっと「どうぞ」と言い終える頃には、恋に落ちていた。一目惚れなど初めてだった。

 顔が熱を持ったのをジョッキを呷ってごまかし、一杯で冷やかすつもりだったのを気づけば二杯目に口を付けていた。彼女は上等そうなスーツ姿で、油で汚れたカウンターでも背筋を伸ばして凜として――間違っても肩が触れてはいけないと俺に思わせた。


 だが意外にも葉子は屈託のない女だった。周囲が煩雑に入れ替わるたった数時間で、俺たちは待ち合わせた友人のようになった。仕事の愚痴を言い合い、酒臭い息で笑い合った。俺たちは愉快でたまらず、はしご酒に興じた。そして体の関係を持った。

 翌朝、「責任を取る」と冷や汗を拭った俺に、葉子は「いいの。忘れましょう」と微笑んだ。


 しかし次の週末には同じ店で再会し、日を越える前には、月明かりに青く血管の浮く肌を再び暴いていた。葉子はただ流されるまま、文句も言わなかった。硬質な白は触れれば柔く、噛みつけば容易に赤い点線をこしらえる。

 そのときの俺には、大切にとか優しくだとかそんな感情は露ほども湧かなかった。ただ目の前の女に触れていることを確かめて確かめて、結果ひどく乱暴になった。触れてなぞり上げ、擦り撫でる。そうすれば返事だけは上がる。

 だが満たされない。

 決して俺に情は渡さないとばかりに反らされた顔。晒す首に噛みついても甘く愛撫しても、決して背中に回らない手。打ちつける苛立ちに喚くような声が上がっても、俺はひとりだった。どんなに卑猥に汗や体液が混ざり合っても俺と葉子は別々のままだった。


 いたぶるような交わりのあと、俺は葉子が寝る間に逃げた。

 ベッドに横たわる彼女の熱く湿った背中が乱れた髪が乳房が、俺をまた理性のないただの猿へと陥れようとしたからだ。そしてもし彼女を腕に抱いて愛を囁いても、きっと次の瞬間には欠片ほどの理性が、喪失と暴力的な哀しみを前に崩壊してしまうと分かっていたからだ。分かっていたから――。


 下品なネオンのビル街は電池が切れたみたいに真っ暗で、まるで雪でも降ってくるみたいに寒かった。薄い安いヤッケをかき合わせると体中からあいつと俺の匂いがして、狂いそうだった。

 震えながら部屋に帰ると隣もサカっていた。薄暗さに自分の吐く息が真白に浮かんだ。ひどく寒い薄っぺらい部屋にくぐもって聞こえる嬌声。

 そのとき俺は葉子以外の声を聞きたくなかった。彼女から逃げてきたのに。支離滅裂な衝動に目に入った酒瓶を手に取った。くすんだ砂壁に残っていた酒が飛び散り、耳障りな音は止んだ。俺の膝も崩れた。

 会いたい。


 敷きっぱなしの布団には硝子の破片がいくつも光り、俺が夢の中で安らぐことすら拒んだ。安酒の匂いが冷えた鼻を刺す。

 ――だめだ、もう会えない。

 例え俺がまた謝っても、彼女はきっと困ったように微笑んでまた言うのだ、許すフリをした顔で永遠に俺を許さない。「忘れましょう」と、言うのだ。耐えられない。


 俺はその街から出た。安月給にはうんざりしていたから丁度よかったと言い訳をして。

 その日の内に、崩れそうな安部屋に移り住んだ。年老いた大家から、空いてるからと二階の角部屋を宛がわれた。黄ばんで端の擦り切れた畳の一間。


 たった一つの窓を開けると、すぐ側で無骨な樹が空へ真っ直ぐに枝先を伸ばしていた。街路樹らしい、外灯に黒々と冬芽を尖らせるシルエットは見るからに硬い。

 それは朝の白い霧の中でも夕の朱色にも決して芽吹かない意志を以てそこに佇んでいた。

 あぁお前は――。

 俺はその樹に葉子の面影を見た。

 春になり顔をのぞかせた柔らかな産毛を纏った芽は、彼女の頬だった。だらしなく色づいて垂れ下がる姿は、事後の彼女の投げ出された両脚。

 特に、花冷えに曇る空に白くまろい花――凜と立ち上がり俺を見向きもしない美しさに、何度手を伸ばしたろうか。だがその度に晩冬の風が火照りきった掌に吹きつけ、俺を現実に引き戻した。そして却って思い出すのだ、葉子の体温を柔らかく芳しい肌の匂いを。

 

 夏がきて樹がありふれた緑に茂り、俺は正気を取り戻していった。

 二度会っただけ、しかも自分勝手に抱いた女に好かれるはずもないと冷静になった。乱暴して逃げた罪は重く、罪悪感から仕事にのめり込んだ。

 新しい仕事はそれなりに居心地よく、行きつけの飲み屋もできた。俺の生活は温く淡くぼやけていき、部屋から樹を眺めはしても触れようとは思わない、そんな日々を過ごした。

 


 季節はまわった。肌寒さに去年着古した黴臭いヤッケを引っぱり出した夜。

 久しぶりに深く酔い、俺にしなだれかかった見知らぬ女を抱こうとした。茶に染まった長い髪をかき上げ、うなじに噛みつく。入り込んだ路地裏、久しぶりの情事に俺はガキのように興奮した。服の下に手を滑り込ませ、薄くあばらの浮いた腹を背を撫で回すまでは。

 女が俺の首に腕を回した――。

 ぎくりと首筋に這わせていた舌先が震え、耳元で嬌声が上がった。背筋が嫌悪で突っ張り、なんの拍子か女が再び喜んだ。しかしすでに俺の体は冷え切って、心臓から肺から痺れ息もつけない。

 ちがう、この女では! 

 

 気づけば家に戻っていた。暗い部屋には窓の磨り硝子ごしに、ぼんやりとした白い外灯の光だけが差していた。荒く吐く息が白く重なる。

 あの夜と同じだった、何もかも。ひどく惨めで寒くて、俺は這うようにして窓に取りついた。開け放つ。

 葉子……!

 窓枠に首を乗せたまま声を堪えた。きつく食いしばる歯に唇がめくれ、顎が生ぬるく濡れた。

 

 分かっていたから逃げた、決して愛されないからと。なのに、どうしてこんなにもお前に会いたい。花の精でも、誰でもいい俺の前に出てきてくれ。


 俺は夜空を突く枝先に、必死に手を伸ばした。涙でぼやけた外灯の光が、まるで満開の花のように、白くまろく映った。

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