【夏014】渇望の魔物

 町の中には、不思議なものが人知れず存在しているといいます。


 もまたその一種、正体不明の何かでした。いえ、彼か彼女か、そもそも生き物なのかさえ分かりません。自分自身でさえも把握していないのでした。

 人からは見えず、干渉されず、じっと街角に佇むのが彼の在り方です。


 ただ、彼は飢えていました。


 しかし食欲ではありません。

 お金の欲や名誉の欲でもありません。

 彼自身にも何を欲しているのかは分かりませんでした。

 それでも、とにかく飢えていました。ただただ飢えに苦しんでいました。

 自分が空っぽである事が嫌だったのでしょうか?


 だから彼は道を通る人から、何かをもらおうとしていました。いえ、奪っていました。

 近付いて、接触して、体力や気力、そのようなものを。

 すると人はよろめいたり、ふらついたり、時には倒れてしまいます。

 彼が人間も自分自身もよく分かっていないからこその身勝手な行動でした。


 ですが、その結果。

 悪霊。怪奇現象。彼はそのように呼ばれ、人から恐れられるようになってしまいました。

 それでも彼は満たされていません。

 飢えを嫌って、人から奪う事を続けていました。


 そんなある日の事です。

 彼は少し変わった人間と出会います。

 高校生の少年でした。

 その少年は体力に満ち溢れていて、奪ってしまう彼がずっと近くにいても、元気なままだったのです。

 だから彼は一緒にいる事にしました。勝手についていきました。満たされるかもしれないと期待して。

 すると、彼らはとある場所に着きます。


 そこは蔦に覆われた大きな建物でした。

 多くの人間が集まっていて、彼の知らない、野球というスポーツを観戦していました。

 そして、凄まじい熱気に満ちています。野球をする方も見る方も、大きな感情を持っていました。

 わざわざ奪うまでもなく、むしろ飲み込みきれない程の熱気で、彼は飢えを忘れられました。


 特に、少年が熱く燃えていました。


 そこで少年はピッチャーをしていました。

 チームのエースで、次々と速いボールを投げて、相手を抑えます。

 大いに活躍して、勝利。そして一際の歓声が包みます。

 よく分かっていない彼も、なんだか心が熱くなったようです。


 そして、更に驚きの出来事が待っていました。

 試合が終わると、少年はグラウンドの中心で、強気な笑みを浮かべて、こう言ったのです。


「どうだ、凄えだろ?」


 それは、誰でもなくに向けられた声でした。

 何故だか少年は、彼の存在に気付いていたようです。

 凄く驚いて、だからこそ彼は少年の声に集中します。


「気に入ったんなら、ずっと特等席で見てていいぞ?」


 こうして彼は最高の居場所を得ました。


 それから少年はたくさん話しかけてくるようになります。勿論他に誰もいない時に。

 この場所の名前が甲子園であるという事。少年達がしている野球のルール。様々な事を教えてくれました。他にも他愛ない話を色々と。

 人との話は勿論初めて。返事が出来ないのを残念に感じます。

 初めての経験を、彼は舞い上がるように喜びます。


 そしてやっぱり、少年の試合にも興奮しました。教えられて、凄さを実感して、大いに楽しみます。

 彼だけでなく、観客やチームメイトも熱く燃えています。

 彼はいつしか、少年も野球も甲子園も好きになっていました。




 ですが。


 ある日、少年は試合に負けてしまいました。

 投げるボールがなかなかストライクに入らなかったのです。今までの少年からかけ離れたプレーでした。


 試合の後で、少年は一人、暗い顔で呟きます。


「……なんでだよ」


 その後、彼は少年からそっと離れていきました。


 少年が負けてしまったから?

 満足出来なくなってしまったから?

 人間から力を奪う自分のせいだと思ったから?

 理由は彼自身にも分かっていませんでした。


 その後はただ、少年に出会う前と同じように、じっと佇みます。

 その場所に、甲子園の片隅に。

 そうしてその年の夏は終わりました。


 季節が変わっても彼は同じ場所にいました。動きませんでした。

 そこでは相変わらず野球が行われます。

 大人が試合をします。

 春になれば、また若い人間が試合をしていました。


 しかしそこにあの少年はいませんでした。

 飢えはより強くなってしまいます。


 どの時も人々は熱気に満ちています。

 なのに彼は、満足出来ませんでした。

 来る日も来る日も、熱気の中で飢えていました。

 もしかすると、この場所に来る前よりも酷く飢えていました。

 彼は世界に一人ぼっちでした。



 そうして。

 一年が経ち、また夏がやってきます。

 あの少年と出会った、夏が。

 飢えは強く強くなっています。

 どれだけこの場所から熱気を得ても満たされないままに。

 あれだけ好きだった野球も、甲子園も、彼を熱くはしません。

 ですがそれを疑問に思う事はありません。

 ただただ、じっと佇んでいます。


 そんなある日。

 彼は、唐突に話しかけられました。


「悪い、遅れた。センバツで来るつもりが負けちまった」


 あの少年でした。

 相変わらずの強気な顔です。去年の夏の最後に見た暗い面影はありません。


「でもそれはつまり、去年のアレも、お前のせいじゃなかったって事だ。なあ、また特等席で見ていかねえか?」


 少年の言葉に、彼は喜びます。歓喜に震えます。彼の中に温かいものが生まれます。


 彼は満たされました。

 そこでようやく気付きます。

 彼が何に飢えていたのかを。

 また後ろについていって、少年の勇姿を見守ります。

 好きになったものを見逃さないように。



 さあ。今年もまた、夏が始まります。

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